2合目 心の登山に必要な物

2合目 心の登山に必要な物

エニアグラムという心の登山地図~

エニアグラムとは何か?

 

 象徴図形としてのエニアグラムの起源について、史実として確認できる情報は皆無である。(出典ウィキペディア

 グルジェフが発見したシンボル図形に、1960年代になってオスカー・イチャーゾが性格の9タイプを関連付け、クラウディオ・ナランホ、ヘレン・パーマー、ドン・リチャード・リソ、ラス・ハドソンらのエニアグラム研究家によって主にアメリカで広められた。

日本ではじめてエニアグラムが紹介されたのは1987年で『エニアグラム入門ー性格の9タイプとその改善』が春秋社から刊行されている。翌年、訳者である聖心女子大学教授鈴木秀子氏を中心に「日本エニアグラム学会」がスタートした。

 

 エニアグラムの解説本やウェブサイトはたくさんあるが、そのほとんどが2次元(平面)図形をもとにした性格タイプの類型を詳細に述べたものである。リソ・ハドソンの2000年の書籍『性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム』の中で紹介されたダイナミックモデル「統合と分裂の方向」、垂直方向への心のレベルの記載「健全〜通常〜不健全」という概念構造、それらを立体化したものは円錐形もしくは円柱形のモデルしか見当たらない。

 

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C+F研究所HP(http://www.transpersonal.co.jp/p/enneagram/about/9types/

人間の性格タイプを9つの基本タイプに分類し、そのタイプ特有の根元的な怖れと、その怖れから発動するタイプ特有の欲動、情動に従って健全な心の状態から通常の状態、不健全な状態へと下がっていく心理的ダイナミズムを説明するモデルで、その幾何学的シンボル図形上でそれぞれのタイプの関連性までもが現されている。

 

以下タイプの概略を述べると、



タイプ1:改革する人

自分にきびしく 他人にもきびしい

完璧主義者 改革タイプ (The Perfectionist)



タイプ2:助ける人

思いやりがあり、たまに自分を犠牲にしすぎる

人を助ける 必要に応えるタイプ (The Helper)





タイプ3:達成する人

周囲からの高い評価を求める

実行者 達成するタイプ (The Achiever)



タイプ4:個性を求める人

周りと同じことは好まない

個性的 芸術家タイプ (The Designer)



タイプ5:調べる人

知識を蓄え、分析する

学習者 観察するタイプ (The Investigator)



タイプ6:信頼を求める人

まじめで誠実な

忠実 疑い深いタイプ (The Loyalist)



タイプ7:熱中する人

楽観的で衝動的な

熱中するタイプ (The Enthusiast)



タイプ8:挑戦する人

他人に頼らず自己主張が強い

挑戦する人 ボスタイプ (The Boss)



タイプ9:平和を好む人

葛藤を嫌い、調和を求める

平和をもたらす人 調和タイプ (The Peacemaker)



このエニアグラムのタイプ診断とマズロー欲求段階説を組み合わせると、より心のダイナミズムが分かりやすく説明される。




マズローの欠乏欲求(欠乏動機)と成長欲求(成長動機)~

動機付け理論で知られるアブラハム・マズローだが、その功績は神経症への心的力動を欲求(動機)と関連づけたことと、欲求には階層構造があり、下位の欲求が満たされることによって上位の欲求へと動機づけされるということを見出したことだ。これは欲求五段階説として広く解説されているが、マズローの一番の発見は欲求を、種類の違う欠乏欲求と成長欲求とに分類したことである。そして成長欲求は自己実現へのエネルギーの源泉であり、その欲求自体が成長への目的となると看破したことに大きな価値がある。

 

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https://jibun-compass.com/maslow

人は低次の欲求から段階を踏んで階層的に高次元の欲求を求めていく、具体的にはまず生きていくうえで基本となる1.生存欲求

身を守るための2.安全欲求

所属と愛を求める3.社会的欲求

他者から認められたい、自分を認めたいという4.承認欲求

マズローの言葉を借りると、有機体において本質的に欠けているいわば空ろな穴であり、それは健康のために満たされねばならず、しかも、主体以外の人間によって外部から満たされねばならない。これを説明するために欠損欲求あるいは欠乏欲求と呼び、別の非常に違った性質の動機と対照的におこうとする」(完全なる人間27P)

と。ここまでの欲求は欠乏欲求と呼ばれ、これらの欲求は下から順に満たされるのが優先事項となる。

階層的に下位の欲求がある程度満たされないと次の段階の欲求は現れない、そして4番目の欲求が満たされて初めて成長欲求である5.自己実現欲求が現れる。

また4番目の欲求(承認、自我)には2段階あり、他者からの評価に対する欲求と自己の自らに対する評価への欲求がある。

 

5番目の欲求は成長することそれ自体が目標となるので欠乏欲求の段階とは異なり、自己実現への純粋な動機、人間の本質へと向かう真善美感や、人間の本性に忠実な状態を目指すことになる。

再びマズローの言葉を借りると、

「人間は自分のうちに、人格の統合性、自発的な表現性、完全な個性と統一性、盲目にならず真実を直視すること、創造的になること、善なること、その他多くのことに向かう力を持っている。すなわち、人間はさらに完全な存在になろうとするようつくられている。そしてこれこそ、大部分の人が良い価値と呼ぶもの、すなわち、平安、親切、勇気、正直、愛情、無欲、善へと向かう力を意味するのである」(完全なる人間P197)

 

 

そもそもマズローは、著書「完全なる人間」の緒言 健康への心理学への中で、人間の本性は善であると述べている。そして人間は成長し、成長は自己法則に従うという。

健全に成長を続けている幼児にしてみれば、高遠な目標のために生きているのでもなければ、遠い未来のために生活しているのでもありません。かれらはあまりにも忙しく自己を愉しみ、その時その時を自然に生きています。かれらは生きているのであって生きる用意をしているのではない。かれらは別に成長しようと努めるのでもなく、ただ自然と生存し、現在の活動に喜びを見出すことだけに生きているのです。

 

成長は、次の段階への前進が主観的に喜ばしく、快適で、われわれが慣れ親しんできて、退屈さえ感じている以前の満足にも増して本当に満足すべきものである場合に、生ずるということである。(完全なる人間P57)

 

 

そうであるにも関わらず、何ゆえに神経症へと向かうエネルギーの流れは、人間の本性を隠し、理性を見えなくし、野生、本能という人を動物へと駆り立てる動力源となるのだろうか?欠乏は自らの外部にそれを埋めるものを求め続ける。獣が獲物を探し、生きるために捕食するように止めることのできない流れなのだろうか?

 

成長とは一歩一歩、地面を踏みしめ、心の山を登ることである。

生まれたての赤ん坊は生きるために自分の唇を駆使して母親の乳房から乳を飲むことで初めての支配感を満たし、生存の欲求を満たす。

成長するにつれ、身の安全を確保し、不安や混乱から逃れる術を覚え、他者への依存やルールなどの外部とのつながりの中で安心を得ようとするのだ。

孤独を怖れ、家族や学校、会社に所属したいと願う一方、それらの関係から逃れたいと感じる。様々なジレンマを経験しながら人は成長する。

少しずつ下位の欲求を満たし、時に退行しながら確かめ、操作し、挫折し、それらを繰り返して成長するのである。

この成長という大きな力動は神経症への力動を上回る。だから人間は滅びることなく、今、なお進化しているのだ。



1合目 心の山登りの準備

1合目 心の山登りの準備

~日常の風景~

朝、テレビをつける。繰り返し報道されているのはどこか可笑しな人の話。面白おかしく編集されてオンエアーされる人間の強調された一面。「このハゲー!」と絶叫する女性や号泣する男性。セクハラ、パワハラ、暴言、失態、テレビカメラが切り取った一瞬の映像は何度も何度も繰り返される。

さて仕事に行かなくては、、、と、電車に乗っているとほとんどの人がスマホを触っている。ゲームに熱中する人、漫画を読む人、SNSに興じる人、スマホは人々の頭から自律的な思考を奪っていく。ドアが開くと我先にと急ぐ。群衆の中を徒競走ばりのダッシュと体を入れあってボールを奪うサッカー的な動作で駆け抜けていく。そういえば座席に座っていても少しでも隙間があろうものなら体をねじ込んでくる人もいる。そんな時私はなんでこんな狭い場所に無理やり座ってくるのだろう?と怒りを孕んだ疑問が湧いてくる。そう、自分が座っていることは自分の特権であり、その特権が無理やり割り込まれたことによって損なわれたと感じて怒りが生じているのである。この感覚こそが神経症的感覚である。

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狭い道路ですれ違う時、相手が道を譲るべきであると感じるのも、自分の意見が一番正しいはずだと思うのも、自分はひどい目にあっていて誰も助けてくれないと感じるのも、そして都合の悪いことの原因はすべて自分の外にある!と思うのも、すべてが神経症的な感覚なのだ。

レンホーナイはこのような神経症的自意識の仕組みを著書『自己実現の闘い 神経症と人間的成長』の中で詳細に分析している。自己理想化という自分を完全な存在にしたいという欲求が、栄光の追求という神経症的要求を生み出し、べきの専制(自分は理想通りになるべきで、そのように評価されるべきで、実際そういう待遇を受けるべきである)、まがいものの自信である神経症的誇りへの発達過程を経て、自己嫌悪、自己軽蔑、自己疎外に陥る。これらの緊張状態を緩和させるために自己拡張的解決や自己縮小的解決、病的依存、あきらめ、などの態度で応じることが、神経症的意識の原因であると説明している。

 

神経症へ至るメカニズム

神経症への自動的な欲動の発動は、自らを理想的な自己として意識することから始まる。この自己理想化を彼女は栄光の追求と呼んでいる。自ら栄光を追求しだすことにより、その理想的な自己になりたいという欲求が、自分は理想的な自己であるべきであり、周囲も含めてそのような存在として崇めて欲しい、その欲求がいつの間にか自分は崇められるべきだ!崇められなければならない!というように、欲求ではなく、崇めることを要求するようになっていく。欲求が要求へと変化している点、この点が一つの重要な転換点だといえる。しかし、現実の自分と理想的な自己の間には大きなギャップ、厳然たる断崖が立ち塞がっており、神経症的な誇り、つまり偽のプライドがそのギャップの存在を許さない。そしてますます想像の自我を膨らませ、空想の中で理想を追い求める。要求は多岐にわたり、その要求から逃れるために他人は、神経症的な人から離れていく。しかし、自分は素晴らしい人間だと思い込んでいる状態では、自分に問題があることは決して認められず、他人に問題があると思い込み、他者を非難し、神経症者の疎外感はますます大きくなる。自分の元に呼び寄せようと周囲を操作し、思いつく限りの偽善と嘘を並べ立て他人を陥れようとするだ。

自らがこのメカニズムに気付かない限り、この下方へと向かうスパイラルは止まらない。下落するに従って重力は強まり、ブラックホールに飲み込まれる星々のように輝きは失われ、光は全く届くことなく、消滅への運命を辿ることとなる。 

 

登山において、山頂を目指して一心不乱に登るためにはエネルギーが必要であることは言うまでもない。反対に下山する時もエネルギーは必要だが、その場合は位置エネルギーを制御しながら下る。人生と同じく道に迷った時、山では迷っていることに気づかず下山を続けると遭難という事故につながる。また迷ったことに気づいても、このまま行けるだろうと安易な判断を行った場合も同様の結果となるだろう。

道に迷った場合の選択枝はただ一つ、迷った位置にまで登り返すこと。これには意思の力と登り返すための追加のエネルギーが必要だ。

 

遭難してレスキューを待つ間も、ビバークして体力を温存する場合も、いずれにしても心の余裕とエネルギーの余力が必要なのだ。


神経症への迷い道を下っている場合は、心の余裕もエネルギーの余力もない。

人生に迷った時、悩んだ時はすぐに気づいて新しいエネルギーの注入が必要なのだ!

 

レンホーナイは言う。

栄光の追求とは、理想化した自己を現実化しようとする欲求であり、それはあたかも山に登ることを欲しないで頂点に立つことを望むようなものであると。

心の病が古の問題であり、心理学がその病の救済に向かって発達してきたわけだが、現代の社会は、神経症という症状を病的には扱わずに個性や誰もが持っている一般的な資質として扱っているように思う。「あの人はそういう人だから」の一言で皆が納得してしまう。納得してあきらめるのではなく、実は「そういう人」はもっともっと自由な心を獲得することができるのだということを、知っていただきたい。心の山を登り、心の高度を上げることでそれが可能になるということを、実践を通じて説明してみたいと思う。

 

<深呼吸、コーヒーブレイク>

【心とは?意識とは?意識の謎】

意識に関する闇は、量子力学と同じくらい謎の多い、未だに解明されていない分野です。なぜ我々には意識があり、鉱物などには意識がないのか?我々と鉱物は同じ物質から作られています。素粒子であるクオークと電子から原子が形成され、原子から元素が形成されます。我々と鉱物は、そして植物も地球も宇宙もすべて元素から成り立っているのです。

同じ材料でありながら鉱物と生物を分かつ決定的な仕様の違いとは何でしょうか?それは細胞という生命の単位。細胞こそすべての生物が持っている命の最小単位であり、生命が誕生するに至った大いなる小箱であると言えるでしょう。

真核生物では、この小さな細胞の中のさらに小さな核の中で染色体という形でDNAという生命の設計図が折りたたまれています。このDNAは2重らせんの構造をとり、相補的な構造的仕組みをもって生命の設計図を次世代へと錘いています。

このDNAの構造をワトソンと共に世界で初めて解明したフランシス・クリックはなぜ鉱物と同じ物質である脳から意識が生じるのか?という問題に挑み、様々な実験・研究から「人の意識・心はニューロン(脳神経細胞)・ネットワークの発火による相互作用である」ことを見い出しました。物質としての脳がどのように情報を処理しているのか、というこの問題はデビッド・チャ―マーズによって提起された意識のハードプロブレムに対して意識のイージープロブレムと呼ばれています。

 

【意識のハードプロブレム】

私が今見ているこの赤いという主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それはどのようにして発生するのかという問題、主観的な意識体験を外部から観測する方法が無いため、科学的な方法が通用するかどうかすら分からないという意味でハードであるとされています。デビッド・チャーマーズ哲学的ゾンビを想像させることによって様々な議論を呼び起こしました。

それは、自分と分子レベルまで完全に同じ存在なのに彼には全く意識体験が存在しないというゾンビを想像することです。自分と同じ環境で同じ体験をさせれば同じ反応を示すが意識はない。変な話ですがこの話を想像することはできる!そしてこの変なゾンビの話を想像することができること自体が、意識は脳の働きに還元できない証拠であるというのです。

つまり別の人間の物理的状態(ニューロン・ネットワークの発火による相互作用)を完全に記述できたとしても、その記述を元にその人間に意識があることを証明することは不可能であると。一体、意識とは何なのでしょうか?

 

脳の進化と意識の形成?】

私たち人間の脳は生物の誕生とともに進化してきました。もっとも原始的な部分が脊髄と考えられており、動物の神経系が複雑さを増すと、脳幹や小脳といった脳領域が脊髄の上に増築されます。これは数百万年に渡って進化的な淘汰圧を受けながらも、古い脳領域は排除されることなく、その進化的圧力により最適化されて別の目的に再利用されてきたのです。現在私たち人間には大脳新皮質という6層目の増築された領域があり、意識が発生すると考えられている物理的領域です。哺乳類からホモサピエンスへと進化するにあたり、家族や集団で活動し、道具を使って狩をして肉を食べ、脳に栄養がいきわたり、さらに集団でのコミュニケーション力を発揮して新皮質が発達するという私たちだけに恵まれたスパイラル効果があったのです。

全身の末梢神経から集められた刺激などの情報は脊髄を経て小脳で処理されるものもあれば大脳に昇り、鮮明な意識として認識されるものもあります。大脳と小脳にはおよそ1000億のニューロン神経細胞が集まり、大脳ではその20%が仕事(ニューロン・ネットワークによる発火の相互作用)をしていますが、基底核をはじめ大脳のあらゆる部位と多様なコミュニケーションを図り、それらが統合されることで意識が形成されているのでしょう。この形成された意識(コンシャス)はいわばOS(オペレーションシステム)であり、主に快・不快、怒り、恐怖、餓え、安心などの感情を紡ぎ出すための根本的な仕組みだと言えます。その後、生まれてからの様々な経験、学習を積むことでアプリケーションシステムとしての思考(マインドウエア)を発達させます。発達した思考(マインドウエア)が自我を生み、性格というタイプの基礎を形作るのです。マインドウエアの発達には経験、性差、生まれながらの気質、遺伝的要因なども含めて様々な意識との相互作用が必要であり、その結果として自我が形成されていくのです。

そして自我は性格を形づくります。

 

意識の発達には環境との相互作用が不可欠ですが、胎児は母親の羊水に浸り、10ヶ月の間で成長します。胎児の脳は母親の心音とコミュニケーションし、温かな環境と相互作用し、やがてこの世界に生まれてきます。母親の狭い産道を通り、生まれ落ちるとき、生物的な恐怖と苦しみをまさに生まれて初めて味わうのかもしれません。その後、母親の胸に抱かれ、心地良さや周囲の兄弟の笑い声に喜びを感じる場合もあれば、暗い闇の中で寒さと飢えを経験するのかもしれません。まさに人それぞれ様々な経験を重ね、影響を受けながら生きていくうえでの戦略を形成し、選択のバリエーションを増やしていくのです。選択しないバリエーション、捨て去るパターンも重要です。まさにその進化は生物の進化そのものの歴史。奇跡と呼びたくなる大脳の進化、この進化が持つ自然選択のエネルギーを体中に満たして、意識は自我を形成していくのです。不快な時に大声で泣き叫ぶ子もいれば、常に必要なものを与えられて余り不快を感じない子もいます。大声で泣いても親からの反応が自分にとって好ましいものでなければ泣くのをやめて怒りを表すかもしれません。または反応を低下させることで感情を押し殺すかもしれません。当面は自分にとって最適な選択が行われ、神経細胞の接続パターンも当然その部分が強化されていきます。幼年期での家族環境や友達との関係性、時には大きな心の傷を負うこともあるかもしれません。大脳はそれらの事象といかにうまくやっていくか?生存のための最適な選択パターンを構築し、また捨てていくのです。発達心理学的にも自分と他者との区別がつかない幼い子供が成長するにつれ、家庭生活のストレスに順応するために独自の自己を発達させながら、各自の能力や嗜好、防衛的な本能を織り交ぜながら成熟していくのです。

 

このような生存のための選択バリエーションとそれらの統合パターンによって人は9つの基本タイプに分類することが可能となります。

それぞれのパターンごとに特定の根元的な怖れ、囚われ、欲求があり、それをタイプ特有の反応で対応することになるのですが、その対応パターンこそが性格のタイプとなります。しかしながら何故9つのタイプに分類されるのか?そこに現在信頼しうる科学的根拠はありません。ですが現実の観測結果とは見事に整合しており、9つの基本タイプで性格が説明できてしまうという何千年にも及ぶ年月と膨大な観測を経て辿り着いた精神構造の知見なのです。この知見にあやからない手はありません。アイザック・ニュートンの言葉にある、巨人の肩の上で、、、と。(If I have seen further it is by standing on the shoulders of Giants.)



この9つの性格タイプを図形としてあらわしたものがエニアグラムである。

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エニアグラム

心の山を登る ~心の高度を上げて最高の自分になる!

はじめに、山に関する格言を

「征服すべきは山の頂上ではなく、自分自身だ」

エドモンド=ヒラリー)

 

「アルピニズム・・それは筋肉や脚や腕の問題だけではない。成否を決めるのは精神だ」

(ワルテル=ボナッティ)

 

「一歩を踏み出せるなら、もう一歩も踏み出せる」

 

(ドット=スキナー)

生物は海から誕生し、陸上へとその活動領域を広げてきた。生物はさらに生存圏を拡大するために陸上の奥地へ、深部へと踏み込んでいく。そこには隆起した地表があり、つまり山へと入ることになる。さらに奥へと進むと高度は上がり、その場所での進化上の順応が必要となる。山の上を目指すという行為は、生物に与えられた生存のための権利という特別な贈り物なのだろうか。

 

やがて人間は生存のためではなく、利益のために地球のあらゆる場所に進出する。異なるイデオロギーが至るところで出会い、争いが生まれ、エゴは剥き出しのまま境界が生まれた。

山も人間のエゴが表出する場所だったが、何びとも到達したことのない気高い山は、神聖な場所として、神々の領域として崇められることになる。

だが人間は自らのエゴのまま、その神々の頂を踏むことを求めて挑戦し続け、やがてその挑戦は、エゴではなく、自分自身を越えて行かねば到達出来ないことに気づく時に、山の名言は私たちに自らを見つめ直す言葉として意味を成し始める。

 

時は移り、この国では、たくさんの人々が山登りを楽しんでいる。NHK 深田久弥日本百名山という番組が中高年登山ブームの火付け役となって以来、山ガールに代表される若い登山者も大勢見受けられるようになった。2016年には「山の日」が制定され、山の楽しみ方は、一途に頂を目指すだけでなく、山ごはんや温泉など、山で過ごす時間の大切さを味わう多様な活動となってきている。今ではSNSやアプリを使って山仲間との情報交換を楽しんだり、自分の登山記録をログとして残すということも当たり前である。

 

そんな時代に、あらためて山に自分を投影して、自分の心の山を克服する事は、自分の心の成長にどんな意味をもたらすのだろうか?

このブログは、「心の高度」という概念に焦点を当て、自分の心を山に見立てて、自分の心の山を登り、心の高度を上げることを目的としている。
自分の心の山を登るための、様々な古今東西の知見を集約し、山登りのメタファーで語りかけていく。

 

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大山から弓ヶ浜を望む

 

空と山の稜線の境界、雲が流れている。

見渡せば大地と海が広がる、

この大地に足をつけて生きている私たち。

大地は繋がり、一歩一歩、歩き出せばどの山とも繋がっている。

 

この山もそうだ。

一歩一歩、ゆっくりゆっくり、足の置き場を確認しながら、何度も休憩し、水を飲み、汗をかきながら、自分の質量を位置エネルギーへと変換しながら登ってきた。

 

夏、頭のてっぺんからも相当の汗が出て、体中の水分が新しい水と入れ替わったとき、

ああ、今、山を登ってるんだ!と実感する。

冬、澄んだ空気は遠くの景色を見せてくれる。頬を刺す冷たい風も少し汗ばんだ身体にはちょうど良い。

 

眩しすぎる太陽、

夕闇、

暁の影、

様々な自然の様相。

 

鳥のさえずり、

虫の声、

沢の流れ、

木々のざわめき、

そして静寂も。

 

山に登り始めたのは最近だけど、

近場の低山が多いけど、

それでも山登りは楽しい。

今、立っているところと全ての山は繋がっているから。

 

星も大地も海も、この私自身もみな繋がっている。

すべてはひとつ。境界はない。

 

心の登山とは?

 

山登りをされたことのある方なら覚えがあるだろう。頂上を目指して一心不乱に昇る楽しさと苦しさ、樹林帯の美しい緑や稜線からの景色に目を奪われ、だんだん心が軽くなっていく。足元の花の可憐さや身体をすり抜けていく風の心地よさ、ちょっと一服したときに吸い込んだ空気と喉を潤す水の美味しさ。乗り越えなければ進めない岩をよじ登り、沢を飛び越え、そんな体験を重ねながら高度を上げていく。

やがて頂上にたどり着く。今まで見たことのない景色、遠くまで見渡せば様々な山の姿が現れる。一つ一つが違った山、尖った山、なだらかな山、連なって聳え立つ山々。視界いっぱいの青い空に囲まれて、昇ってきた自分の山を振り返る。

 

「だから山に登るんだ」

 

山は頂上まで登ったら必ず降りないといけない。この下りがまたそれなりに辛い。高い山や険しい山であるほど下りも辛くしんどい。

 

「ずっと頂上にいたい」

 

心の登山

心の登山は降りなくてもいい。どんどん昇って行けばいい。どんどん高度を上げて行けばいい。時にはのんびり休んでもいい。様々な心の山登りを楽しめばいい。

 

心の高度を上げる。

ゆっくりと、時には急登もあるだろう。

心の高度を上げていくと、今まで見えなかった景色が見えてくる。

開ける視界、遠くまで見渡せば今の自分の立ち位置がよりハッキリとわかる。

登る前は、四角いビルに囲まれて閉塞感で一杯だった心が自由になり、どこへでも行けるように身体も軽くなっている。

 

自分自身は元より、家族のこと、仕事の仲間や他人のことが理解ができるようになる。世の中のことがよく理解り、直感が働くように様々な答えが自然に降りてくるような感じが生じる。



エニアグラムの大家ドン・リチャード・リソの著書『性格タイプの分析』の第一章でリソはこう述べている。

「私たちは看守のいない独房に入っている囚人のようなものである。だが、誰かに無理矢理閉じ込められたわけではないし、外に出るための鍵も一緒にこの中にある。その鍵を見つけることさえできれば、扉を開けて自由になれる。しかし、私たちはその鍵がどこに隠されているのか知らないし、かりに知っていたとしても、私たちの中には牢獄を破って外に出るのを怖れる気持ちがある。(略)私たちは実際に自分自身の自我(エゴ)の囚人である。自分の怖れに鎖でつながれ、自分の自由を制限され、自分の状況に苦しんでいる。(略)

エニアグラムによって、私たちは、たくさんの扉を開けることのできるマスターキーを見つけている。この鍵は、私たちが自分自身を閉じ込めている牢獄から解放し、もっと充実した人生を楽しむために必要な知識を授けてくれる。(略)」

鍵を見つけ、鎖を外し、歩き出そう!

一歩ずつ歩き出せば景色は変わる。

そして心の山を登るのだ!心の高度を上げて最高の自分になるために!

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<目次>

1合目 心の山登りの準備

~日常の風景~

2合目 心の登山に必要な物

エニアグラムという心の登山地図~

3合目 登る山を決める(自分の性格タイプを知る)

エニアグラム基本タイプ診断~

4合目 自分の心の高度を知る

エニアグラム発達の諸段階~

5合目 登る方向を決める

エニアグラムの統合と分裂の方向~

6合目 登るために必要なエネルギー

~心的エネルギー~

7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~

8合目 高度順応

~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~

9合目 さらなる統合へ向かって心の山を縦走する

エニアグラムのタイプの頂を縦走する~

 

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山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ

その先にあるもの