心の山を登る ~心の高度を上げて最高の自分になる!
はじめに、山に関する格言を
「征服すべきは山の頂上ではなく、自分自身だ」
(エドモンド=ヒラリー)
「アルピニズム・・それは筋肉や脚や腕の問題だけではない。成否を決めるのは精神だ」
(ワルテル=ボナッティ)
「一歩を踏み出せるなら、もう一歩も踏み出せる」
(ドット=スキナー)
生物は海から誕生し、陸上へとその活動領域を広げてきた。生物はさらに生存圏を拡大するために陸上の奥地へ、深部へと踏み込んでいく。そこには隆起した地表があり、つまり山へと入ることになる。さらに奥へと進むと高度は上がり、その場所での進化上の順応が必要となる。山の上を目指すという行為は、生物に与えられた生存のための権利という特別な贈り物なのだろうか。
やがて人間は生存のためではなく、利益のために地球のあらゆる場所に進出する。異なるイデオロギーが至るところで出会い、争いが生まれ、エゴは剥き出しのまま境界が生まれた。
山も人間のエゴが表出する場所だったが、何びとも到達したことのない気高い山は、神聖な場所として、神々の領域として崇められることになる。
だが人間は自らのエゴのまま、その神々の頂を踏むことを求めて挑戦し続け、やがてその挑戦は、エゴではなく、自分自身を越えて行かねば到達出来ないことに気づく時に、山の名言は私たちに自らを見つめ直す言葉として意味を成し始める。
時は移り、この国では、たくさんの人々が山登りを楽しんでいる。NHK 深田久弥の日本百名山という番組が中高年登山ブームの火付け役となって以来、山ガールに代表される若い登山者も大勢見受けられるようになった。2016年には「山の日」が制定され、山の楽しみ方は、一途に頂を目指すだけでなく、山ごはんや温泉など、山で過ごす時間の大切さを味わう多様な活動となってきている。今ではSNSやアプリを使って山仲間との情報交換を楽しんだり、自分の登山記録をログとして残すということも当たり前である。
そんな時代に、あらためて山に自分を投影して、自分の心の山を克服する事は、自分の心の成長にどんな意味をもたらすのだろうか?
このブログは、「心の高度」という概念に焦点を当て、自分の心を山に見立てて、自分の心の山を登り、心の高度を上げることを目的としている。
自分の心の山を登るための、様々な古今東西の知見を集約し、山登りのメタファーで語りかけていく。
空と山の稜線の境界、雲が流れている。
見渡せば大地と海が広がる、
この大地に足をつけて生きている私たち。
大地は繋がり、一歩一歩、歩き出せばどの山とも繋がっている。
この山もそうだ。
一歩一歩、ゆっくりゆっくり、足の置き場を確認しながら、何度も休憩し、水を飲み、汗をかきながら、自分の質量を位置エネルギーへと変換しながら登ってきた。
夏、頭のてっぺんからも相当の汗が出て、体中の水分が新しい水と入れ替わったとき、
ああ、今、山を登ってるんだ!と実感する。
冬、澄んだ空気は遠くの景色を見せてくれる。頬を刺す冷たい風も少し汗ばんだ身体にはちょうど良い。
眩しすぎる太陽、
夕闇、
暁の影、
様々な自然の様相。
鳥のさえずり、
虫の声、
沢の流れ、
木々のざわめき、
そして静寂も。
山に登り始めたのは最近だけど、
近場の低山が多いけど、
それでも山登りは楽しい。
今、立っているところと全ての山は繋がっているから。
星も大地も海も、この私自身もみな繋がっている。
すべてはひとつ。境界はない。
心の登山とは?
山登りをされたことのある方なら覚えがあるだろう。頂上を目指して一心不乱に昇る楽しさと苦しさ、樹林帯の美しい緑や稜線からの景色に目を奪われ、だんだん心が軽くなっていく。足元の花の可憐さや身体をすり抜けていく風の心地よさ、ちょっと一服したときに吸い込んだ空気と喉を潤す水の美味しさ。乗り越えなければ進めない岩をよじ登り、沢を飛び越え、そんな体験を重ねながら高度を上げていく。
やがて頂上にたどり着く。今まで見たことのない景色、遠くまで見渡せば様々な山の姿が現れる。一つ一つが違った山、尖った山、なだらかな山、連なって聳え立つ山々。視界いっぱいの青い空に囲まれて、昇ってきた自分の山を振り返る。
「だから山に登るんだ」
山は頂上まで登ったら必ず降りないといけない。この下りがまたそれなりに辛い。高い山や険しい山であるほど下りも辛くしんどい。
「ずっと頂上にいたい」
心の登山
心の登山は降りなくてもいい。どんどん昇って行けばいい。どんどん高度を上げて行けばいい。時にはのんびり休んでもいい。様々な心の山登りを楽しめばいい。
心の高度を上げる。
ゆっくりと、時には急登もあるだろう。
心の高度を上げていくと、今まで見えなかった景色が見えてくる。
開ける視界、遠くまで見渡せば今の自分の立ち位置がよりハッキリとわかる。
登る前は、四角いビルに囲まれて閉塞感で一杯だった心が自由になり、どこへでも行けるように身体も軽くなっている。
自分自身は元より、家族のこと、仕事の仲間や他人のことが理解ができるようになる。世の中のことがよく理解り、直感が働くように様々な答えが自然に降りてくるような感じが生じる。
エニアグラムの大家ドン・リチャード・リソの著書『性格タイプの分析』の第一章でリソはこう述べている。
「私たちは看守のいない独房に入っている囚人のようなものである。だが、誰かに無理矢理閉じ込められたわけではないし、外に出るための鍵も一緒にこの中にある。その鍵を見つけることさえできれば、扉を開けて自由になれる。しかし、私たちはその鍵がどこに隠されているのか知らないし、かりに知っていたとしても、私たちの中には牢獄を破って外に出るのを怖れる気持ちがある。(略)私たちは実際に自分自身の自我(エゴ)の囚人である。自分の怖れに鎖でつながれ、自分の自由を制限され、自分の状況に苦しんでいる。(略)
エニアグラムによって、私たちは、たくさんの扉を開けることのできるマスターキーを見つけている。この鍵は、私たちが自分自身を閉じ込めている牢獄から解放し、もっと充実した人生を楽しむために必要な知識を授けてくれる。(略)」
鍵を見つけ、鎖を外し、歩き出そう!
一歩ずつ歩き出せば景色は変わる。
そして心の山を登るのだ!心の高度を上げて最高の自分になるために!
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの