1合目 心の山登りの準備

1合目 心の山登りの準備

~日常の風景~

朝、テレビをつける。繰り返し報道されているのはどこか可笑しな人の話。面白おかしく編集されてオンエアーされる人間の強調された一面。「このハゲー!」と絶叫する女性や号泣する男性。セクハラ、パワハラ、暴言、失態、テレビカメラが切り取った一瞬の映像は何度も何度も繰り返される。

さて仕事に行かなくては、、、と、電車に乗っているとほとんどの人がスマホを触っている。ゲームに熱中する人、漫画を読む人、SNSに興じる人、スマホは人々の頭から自律的な思考を奪っていく。ドアが開くと我先にと急ぐ。群衆の中を徒競走ばりのダッシュと体を入れあってボールを奪うサッカー的な動作で駆け抜けていく。そういえば座席に座っていても少しでも隙間があろうものなら体をねじ込んでくる人もいる。そんな時私はなんでこんな狭い場所に無理やり座ってくるのだろう?と怒りを孕んだ疑問が湧いてくる。そう、自分が座っていることは自分の特権であり、その特権が無理やり割り込まれたことによって損なわれたと感じて怒りが生じているのである。この感覚こそが神経症的感覚である。

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狭い道路ですれ違う時、相手が道を譲るべきであると感じるのも、自分の意見が一番正しいはずだと思うのも、自分はひどい目にあっていて誰も助けてくれないと感じるのも、そして都合の悪いことの原因はすべて自分の外にある!と思うのも、すべてが神経症的な感覚なのだ。

レンホーナイはこのような神経症的自意識の仕組みを著書『自己実現の闘い 神経症と人間的成長』の中で詳細に分析している。自己理想化という自分を完全な存在にしたいという欲求が、栄光の追求という神経症的要求を生み出し、べきの専制(自分は理想通りになるべきで、そのように評価されるべきで、実際そういう待遇を受けるべきである)、まがいものの自信である神経症的誇りへの発達過程を経て、自己嫌悪、自己軽蔑、自己疎外に陥る。これらの緊張状態を緩和させるために自己拡張的解決や自己縮小的解決、病的依存、あきらめ、などの態度で応じることが、神経症的意識の原因であると説明している。

 

神経症へ至るメカニズム

神経症への自動的な欲動の発動は、自らを理想的な自己として意識することから始まる。この自己理想化を彼女は栄光の追求と呼んでいる。自ら栄光を追求しだすことにより、その理想的な自己になりたいという欲求が、自分は理想的な自己であるべきであり、周囲も含めてそのような存在として崇めて欲しい、その欲求がいつの間にか自分は崇められるべきだ!崇められなければならない!というように、欲求ではなく、崇めることを要求するようになっていく。欲求が要求へと変化している点、この点が一つの重要な転換点だといえる。しかし、現実の自分と理想的な自己の間には大きなギャップ、厳然たる断崖が立ち塞がっており、神経症的な誇り、つまり偽のプライドがそのギャップの存在を許さない。そしてますます想像の自我を膨らませ、空想の中で理想を追い求める。要求は多岐にわたり、その要求から逃れるために他人は、神経症的な人から離れていく。しかし、自分は素晴らしい人間だと思い込んでいる状態では、自分に問題があることは決して認められず、他人に問題があると思い込み、他者を非難し、神経症者の疎外感はますます大きくなる。自分の元に呼び寄せようと周囲を操作し、思いつく限りの偽善と嘘を並べ立て他人を陥れようとするだ。

自らがこのメカニズムに気付かない限り、この下方へと向かうスパイラルは止まらない。下落するに従って重力は強まり、ブラックホールに飲み込まれる星々のように輝きは失われ、光は全く届くことなく、消滅への運命を辿ることとなる。 

 

登山において、山頂を目指して一心不乱に登るためにはエネルギーが必要であることは言うまでもない。反対に下山する時もエネルギーは必要だが、その場合は位置エネルギーを制御しながら下る。人生と同じく道に迷った時、山では迷っていることに気づかず下山を続けると遭難という事故につながる。また迷ったことに気づいても、このまま行けるだろうと安易な判断を行った場合も同様の結果となるだろう。

道に迷った場合の選択枝はただ一つ、迷った位置にまで登り返すこと。これには意思の力と登り返すための追加のエネルギーが必要だ。

 

遭難してレスキューを待つ間も、ビバークして体力を温存する場合も、いずれにしても心の余裕とエネルギーの余力が必要なのだ。


神経症への迷い道を下っている場合は、心の余裕もエネルギーの余力もない。

人生に迷った時、悩んだ時はすぐに気づいて新しいエネルギーの注入が必要なのだ!

 

レンホーナイは言う。

栄光の追求とは、理想化した自己を現実化しようとする欲求であり、それはあたかも山に登ることを欲しないで頂点に立つことを望むようなものであると。

心の病が古の問題であり、心理学がその病の救済に向かって発達してきたわけだが、現代の社会は、神経症という症状を病的には扱わずに個性や誰もが持っている一般的な資質として扱っているように思う。「あの人はそういう人だから」の一言で皆が納得してしまう。納得してあきらめるのではなく、実は「そういう人」はもっともっと自由な心を獲得することができるのだということを、知っていただきたい。心の山を登り、心の高度を上げることでそれが可能になるということを、実践を通じて説明してみたいと思う。

 

<深呼吸、コーヒーブレイク>

【心とは?意識とは?意識の謎】

意識に関する闇は、量子力学と同じくらい謎の多い、未だに解明されていない分野です。なぜ我々には意識があり、鉱物などには意識がないのか?我々と鉱物は同じ物質から作られています。素粒子であるクオークと電子から原子が形成され、原子から元素が形成されます。我々と鉱物は、そして植物も地球も宇宙もすべて元素から成り立っているのです。

同じ材料でありながら鉱物と生物を分かつ決定的な仕様の違いとは何でしょうか?それは細胞という生命の単位。細胞こそすべての生物が持っている命の最小単位であり、生命が誕生するに至った大いなる小箱であると言えるでしょう。

真核生物では、この小さな細胞の中のさらに小さな核の中で染色体という形でDNAという生命の設計図が折りたたまれています。このDNAは2重らせんの構造をとり、相補的な構造的仕組みをもって生命の設計図を次世代へと錘いています。

このDNAの構造をワトソンと共に世界で初めて解明したフランシス・クリックはなぜ鉱物と同じ物質である脳から意識が生じるのか?という問題に挑み、様々な実験・研究から「人の意識・心はニューロン(脳神経細胞)・ネットワークの発火による相互作用である」ことを見い出しました。物質としての脳がどのように情報を処理しているのか、というこの問題はデビッド・チャ―マーズによって提起された意識のハードプロブレムに対して意識のイージープロブレムと呼ばれています。

 

【意識のハードプロブレム】

私が今見ているこの赤いという主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それはどのようにして発生するのかという問題、主観的な意識体験を外部から観測する方法が無いため、科学的な方法が通用するかどうかすら分からないという意味でハードであるとされています。デビッド・チャーマーズ哲学的ゾンビを想像させることによって様々な議論を呼び起こしました。

それは、自分と分子レベルまで完全に同じ存在なのに彼には全く意識体験が存在しないというゾンビを想像することです。自分と同じ環境で同じ体験をさせれば同じ反応を示すが意識はない。変な話ですがこの話を想像することはできる!そしてこの変なゾンビの話を想像することができること自体が、意識は脳の働きに還元できない証拠であるというのです。

つまり別の人間の物理的状態(ニューロン・ネットワークの発火による相互作用)を完全に記述できたとしても、その記述を元にその人間に意識があることを証明することは不可能であると。一体、意識とは何なのでしょうか?

 

脳の進化と意識の形成?】

私たち人間の脳は生物の誕生とともに進化してきました。もっとも原始的な部分が脊髄と考えられており、動物の神経系が複雑さを増すと、脳幹や小脳といった脳領域が脊髄の上に増築されます。これは数百万年に渡って進化的な淘汰圧を受けながらも、古い脳領域は排除されることなく、その進化的圧力により最適化されて別の目的に再利用されてきたのです。現在私たち人間には大脳新皮質という6層目の増築された領域があり、意識が発生すると考えられている物理的領域です。哺乳類からホモサピエンスへと進化するにあたり、家族や集団で活動し、道具を使って狩をして肉を食べ、脳に栄養がいきわたり、さらに集団でのコミュニケーション力を発揮して新皮質が発達するという私たちだけに恵まれたスパイラル効果があったのです。

全身の末梢神経から集められた刺激などの情報は脊髄を経て小脳で処理されるものもあれば大脳に昇り、鮮明な意識として認識されるものもあります。大脳と小脳にはおよそ1000億のニューロン神経細胞が集まり、大脳ではその20%が仕事(ニューロン・ネットワークによる発火の相互作用)をしていますが、基底核をはじめ大脳のあらゆる部位と多様なコミュニケーションを図り、それらが統合されることで意識が形成されているのでしょう。この形成された意識(コンシャス)はいわばOS(オペレーションシステム)であり、主に快・不快、怒り、恐怖、餓え、安心などの感情を紡ぎ出すための根本的な仕組みだと言えます。その後、生まれてからの様々な経験、学習を積むことでアプリケーションシステムとしての思考(マインドウエア)を発達させます。発達した思考(マインドウエア)が自我を生み、性格というタイプの基礎を形作るのです。マインドウエアの発達には経験、性差、生まれながらの気質、遺伝的要因なども含めて様々な意識との相互作用が必要であり、その結果として自我が形成されていくのです。

そして自我は性格を形づくります。

 

意識の発達には環境との相互作用が不可欠ですが、胎児は母親の羊水に浸り、10ヶ月の間で成長します。胎児の脳は母親の心音とコミュニケーションし、温かな環境と相互作用し、やがてこの世界に生まれてきます。母親の狭い産道を通り、生まれ落ちるとき、生物的な恐怖と苦しみをまさに生まれて初めて味わうのかもしれません。その後、母親の胸に抱かれ、心地良さや周囲の兄弟の笑い声に喜びを感じる場合もあれば、暗い闇の中で寒さと飢えを経験するのかもしれません。まさに人それぞれ様々な経験を重ね、影響を受けながら生きていくうえでの戦略を形成し、選択のバリエーションを増やしていくのです。選択しないバリエーション、捨て去るパターンも重要です。まさにその進化は生物の進化そのものの歴史。奇跡と呼びたくなる大脳の進化、この進化が持つ自然選択のエネルギーを体中に満たして、意識は自我を形成していくのです。不快な時に大声で泣き叫ぶ子もいれば、常に必要なものを与えられて余り不快を感じない子もいます。大声で泣いても親からの反応が自分にとって好ましいものでなければ泣くのをやめて怒りを表すかもしれません。または反応を低下させることで感情を押し殺すかもしれません。当面は自分にとって最適な選択が行われ、神経細胞の接続パターンも当然その部分が強化されていきます。幼年期での家族環境や友達との関係性、時には大きな心の傷を負うこともあるかもしれません。大脳はそれらの事象といかにうまくやっていくか?生存のための最適な選択パターンを構築し、また捨てていくのです。発達心理学的にも自分と他者との区別がつかない幼い子供が成長するにつれ、家庭生活のストレスに順応するために独自の自己を発達させながら、各自の能力や嗜好、防衛的な本能を織り交ぜながら成熟していくのです。

 

このような生存のための選択バリエーションとそれらの統合パターンによって人は9つの基本タイプに分類することが可能となります。

それぞれのパターンごとに特定の根元的な怖れ、囚われ、欲求があり、それをタイプ特有の反応で対応することになるのですが、その対応パターンこそが性格のタイプとなります。しかしながら何故9つのタイプに分類されるのか?そこに現在信頼しうる科学的根拠はありません。ですが現実の観測結果とは見事に整合しており、9つの基本タイプで性格が説明できてしまうという何千年にも及ぶ年月と膨大な観測を経て辿り着いた精神構造の知見なのです。この知見にあやからない手はありません。アイザック・ニュートンの言葉にある、巨人の肩の上で、、、と。(If I have seen further it is by standing on the shoulders of Giants.)



この9つの性格タイプを図形としてあらわしたものがエニアグラムである。

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エニアグラム