7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~

 

さあ、心のエネルギーが満たされ、その補充方法も手に入れることができた。ここからは高度を上げる事自体が欲求であり、目的となる。

森林限界、それは環境によって高木が育たずに森林を形成することができない境界線を意味する。登山においては、それまで森で視界を遮られていたのがハイマツなど背の低い樹木に変わることで一気に視界が開ける場所である。時期によっては高山植物の花々が咲き乱れ、そこでしか見ることのできない美しい景色と出会うこともある。山の稜線に沿って頂上を目指すとき、この美しい花々たちは疲れた身体を癒してくれ、心も前に向かって躍り出す。改めて自分が登ってきた高さに気づき、新しい空気に触れて深呼吸をしたくなる瞬間である。

しかし、この高度に上がるまでには随分と長く、苦しい道のりだった。

心の森林限界の向こうへ、つまり発達の段階3から2に高度を上げるためには自らの心が暗黙裡に閉ざしてきた扉の向こう側を見る事が必要になる。自分の心を制限している仮面(ペルソナ)という心理的制約を解き放つ事が必要だ。山登りに仮面をつけて登る人はいないと思うが、仮面(ペルソナ)を付けたままでは息苦しくてすぐに酸欠になってしまう。普段の生活においても仮面(ペルソナ)を外し、身体全体で呼吸をしよう。

 

ケン・ウイルバー著『無境界』7章仮面のレベル/発見の始まり(p147〜)

下降と発見の始動は、人生に満足していないことが意識された瞬間にはじまる。大半の専門家の意見とは逆に、この人生に対する耐えざる不満は「精神の病」の兆しでも、社会にうまく適応できないことを示すものでも、人格の崩壊でもない。人生と存在に対するこの根本的な不満の内には、一般に社会的覆いの重圧の下に埋もれているある特殊な知性、成長する知性の萌芽が秘められている。人生の苦しみを実感しはじめている人物は同時に、より深いリアリティ、より真実に近いリアリティにめざめはじめている。苦しみは、リアリティに対する標準的な作り話の自己満足を打ち砕き、ある特殊な意味でわれわれをよみがえらさずにはおかないからである。それまでわれわれが避け続けてきた仕方で自己と世界を注意深く見つめ、実感し、ふれるようになるのである。苦しみは最初の恩寵であるといわれてきたが、わたしはそれは真実だと思う。ある特殊な意味で、苦しみとは歓喜の時であるとさえいえる。創造的な洞察の誕生を記しているからだ。

 

ここでケン・ウイルバーが述べているように、漠然としているがこのままでは良くないという不安、何かが足りないという欲求、マズローの欠乏欲求とは質の違う、直接的ではないが明らかに何か欲している自分を感じる時、開けるべき新しい扉を発見する事ができる。

人生50年も生きてくると、それなりの生活を手に入れてそこそこ満足している自分に気づく。仕事場での職位、肩書き、男性ならば家庭での父親として、夫としての尊厳を、女性ならば母として、妻としての献身など、それまでにも成長に応じて様々な役割を自らに課してきた。ユングは人間がこの世の中を生きていくためには社会と調和していくために割り振られた在り方というものを身につけて行かねばならない、外的環境は個人に対して様々な要請や期待を課し、人はそれに応じて行動せねばならないという。教師は教師らしく、父親は父親らしく。人間は外界に向けて見せるべき自分の仮面(ペルソナ)を必要とするのだ。各人が適切なペルソナを身につけることでこの世の中は円滑に動いていると言える。だからこれは必要であり、また当たり前の事と感じる。しかしながらこのペルソナが硬直すぎると、その人は人間的な味わいを失い、個性が感じられなくなり、存在が固定化してしまう。自分の本当の心との繋がりが失せ、芝居の中で役を演じるだけの人生になっているのである。そしてそのことに満足している自分がいるのだ。

そして満足しながらもどこかしら満足できない、言葉では表現できないようなチリチリとした焦り、不安に駆られる時、何かを求めて動かざるを得なくなるのである。

 

何を求めて動き出せば良いのだろうか?

 

仮面(ペルソナ)vs 影(シャドー)という対立を理解することから始めることにする!

影の投影のメカニズム(p154-)

仮面とは多少不正確な痩せ細った自己イメージである。これは怒り、自己主張、性的衝動、喜び、敵意、勇気、攻撃性、動因、興味などの自分自身の特定の傾向の存在を否定しようとするときに生み出されるものである。だが、いくらそれらの傾向を否定しようとしても、それらが消え去るわけではない。これらの傾向はあくまでも当人のものであり、せいぜいそれらが誰かほかの人のものであるふりをするのが関の山である。事実、自分でなければ誰でもよいのだ。つまり、これらの傾向はほんとうに否定できるわけではなく、単にその所有権が否定されるだけである。

人はこのようにして、これらの傾向が外にある異質な非自己であると実際に思い込むようになる。好ましくない傾向を除せんとして、自らの境界を狭めたのである。そのため、これらの疎外された傾向は、影として投影され、当人は残りの狭められ痩せ細った不正確な自己イメージである仮面だけと同一化するようになる。 

ユングは影(シャドウ)について、

「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのことー例えば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向ーを人格化したものである」

 と述べている。

 

好ましくない影は他者へと投影され、残された仮面と同一化した自分は影と戦うことになる。なぜなら自分が好まない認めたくない嫌な面を持った他人とは仲良くできるはずがない。何かにつけ、気になり、嫌な面が目に入り、その人の悪口を言うはめになる。

 

また誰かから何らかの圧力を受けていると感じたり、例えば上司や妻、会社、学校、部活での〜をせねばならない、という義務感を感じている場合は、実は自分自身の中に〜をやりたいという動因やエネルギーがあるにもかかわらずに、その存在に気がついていない状態なのだ。

 

このように投影された影は、その影に隠された自分自身からのメッセージに気がつくためのチャンスと捉えることができる。

 

他人のことをとやかく言う時、よくよく考えてみれば自分にも当てはまることに気がつく。同じ年位のおじさんがちょっと頑張った服装をしていると、「おっさん、いきってるけど似合ってないで」と思ってしまうのは、実は自分が他人からそんな風に見られてるのでは?という思いをおじさんに投影してるということだ。誰かの非難や中傷をしてるときは、それは自分への言葉だと気がつくことが大切である。
他人のことをどうこういう暇があったら、というか、そもそも他人のことを気にしないで自分の心を高めることが大事なのだ❗

 

受容と変換(p169〜)

影の投影は「外の」リアリティ観を歪めるだけでなく、「内の」自己感覚も大きく変えてしまう。わたしが何らかの情動や特徴を影として投影すると、もはやそれを歪んだ幻想的な形でしか知覚しなくなる。ー「外の対象」に見えるのである。同様に、その影を感じはするが、歪んだ幻想的な形でしか感じない。影が投影されてしまうと、それを症状としてしか感じないのである。~

影が症状になってしまうと、かつて影と戦ったようにその症状と戦う羽目になる。何であれ、自分自身の傾向を否定しようとすると(影)、それらの傾向は症状として現れてくる。そして、かつて影を自分自身から隠したように、自分の症状(震え、劣等感、落ちこみ、不安など)を他人から隠そうとするであろう。

 

このレベルにおけるセラピーの第一歩は、症状を受け入れ、余裕を与え、それまでさげすんできた症状と呼ばれる不快感に親しむことである。自覚をもって症状にふれ、できるかぎり心を開いて受け入れなければならない。これは自分自身が落ちこんだり、不安になったり、拒絶されたり、飽き飽きしたり、傷ついたり、困惑したりすることを許してやることを意味する。

症状を招き入れて自由な動きと呼吸を許し、それをそのままの形で自覚しておくのである。

セラピーにとって変換は鍵である。たとえば、圧力を追い払うために動因を発明する必要もなければ、ありもしない動因を感じようとする必要もない。


プレッシャーや義務感、恐れなどから感じる震え、劣等感、落ち込み、不安などの症状に対し、その症状と戦うことをせず、身も心も任せて受け入れ、不快な気持ちに慣れていくことが大切なのである。不快だからといって取り払おうとか、逃げようとかせず、そのままにしておく、そのままに呼吸をして心を自由にふるまい、それを普通に自覚することで症状は薄らぎ、やがて消えていく。しかしながらその症状がしつこい場合には、その不快感の裏にある元の影に変換し、影からのメッセージに気がつくようにしなければならない。

 

(p173)さまざまな影の症状の一般的意味

症状を元の影の形に変換するための辞書

 

圧力               動因

拒否(誰も私を好いてくれない)  相手にしたくない

罪の意識(あなたに自分が悪いような気にさせられる) あなたの要求は受け入れられない

不安               興奮

自意識(みんなが私を見ている)  わたしは思いのほか他人に興味を持っている

不能/不感症           相手を満足させたくない

恐れ(みんなが私を傷つけようとしている) 敵意(私は怒っていて、それを知らずに攻撃している)

悲しみ              怒り

引っ込み思案           そばに来るな

できない             やりたくない

義務感(やらねばならない)    欲求(やりたい)

嫌悪               自伝的ゴシップ

ねたみ(あなたはえらい)     わたしは思ってるよりましな存在

ケン・ウイルバーはこの段階における自我の統一に必要な考え方をセラピストととの会話を通してうまく言い当てている。それは、もしも母親を嫌悪していると言えばセラピストは無意識に母親を愛していると言う。もし人からバカにされるのが嫌だと言えばセラピストは実はそう言われることを楽しんでいると言う。あなたがイエスと言えばノーと言う。上と言えば下。バカバカしく聞こえるがセラピストはあらゆる形の錯綜した理論を使って、あなた自身の対立をあなたに突きつけてくる。

そこには無意識の対立にすぎない影を、反対の想定を意識的にすることで浮かび上がらせ、一つの感情だけではなく無意識下のもう一つの感情に気付かせることで別の側面を自覚させる意味がある。

ある特定の状況に対する肯定的な気持ちと否定的な気持ち、この両方の気持ち、自らの内にある対立を本当に自覚した瞬間、その状況に関連した様々な緊張感が抜け落ちるのだ。

自分と他人との問題(争い)が実際は自分と自分の投影との戦いでることがわかってくる。自分を困らせていたのは他人や外の出来事ではなく、自分がそれを生み出していることにすぎないことがわかってくるのだ。

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陽光を浴びて伸びるあなたの影(シャドー)は、あなたの一部である。どこへ逃れようと太陽があるかぎり、影(シャドー)はあなたについて来る。影はあなたなのだ、影と一つになって歩き続けよう。

他のせいにしない、自分自身の問題として自分の中の原因を突き止めて対処すること。

自分ではどうにもならないこと、なんとかできると思い上がった心を気づかせてくれ場所、それが山である。
思い通りにならない時、思い通りにならないのは当たり前のこと。
勝手に自分なら思い通りになると思い込んでるだけ。

ひとつのことに集中して行い続けること

負けを認める素直な心

諦めないしなやかな心

あとは感謝。当たり前だと思うと感謝できない❗当たり前じゃあないからこそ、すべてが感謝になる。

ありがとう

これができれば心の高度は段階3を登り、次の高度へと登ることができるであろう!

 

次の心の高度(発達の諸段階2)に順応するためには文字通りの高度順応が必要になる。つまり身体的なレベルと心の統一が必要となる。