心の山を登る ~心の高度を上げて最高の自分になる!

はじめに、山に関する格言を

「征服すべきは山の頂上ではなく、自分自身だ」

エドモンド=ヒラリー)

 

「アルピニズム・・それは筋肉や脚や腕の問題だけではない。成否を決めるのは精神だ」

(ワルテル=ボナッティ)

 

「一歩を踏み出せるなら、もう一歩も踏み出せる」

 

(ドット=スキナー)

生物は海から誕生し、陸上へとその活動領域を広げてきた。生物はさらに生存圏を拡大するために陸上の奥地へ、深部へと踏み込んでいく。そこには隆起した地表があり、つまり山へと入ることになる。さらに奥へと進むと高度は上がり、その場所での進化上の順応が必要となる。山の上を目指すという行為は、生物に与えられた生存のための権利という特別な贈り物なのだろうか。

 

やがて人間は生存のためではなく、利益のために地球のあらゆる場所に進出する。異なるイデオロギーが至るところで出会い、争いが生まれ、エゴは剥き出しのまま境界が生まれた。

山も人間のエゴが表出する場所だったが、何びとも到達したことのない気高い山は、神聖な場所として、神々の領域として崇められることになる。

だが人間は自らのエゴのまま、その神々の頂を踏むことを求めて挑戦し続け、やがてその挑戦は、エゴではなく、自分自身を越えて行かねば到達出来ないことに気づく時に、山の名言は私たちに自らを見つめ直す言葉として意味を成し始める。

 

時は移り、この国では、たくさんの人々が山登りを楽しんでいる。NHK 深田久弥日本百名山という番組が中高年登山ブームの火付け役となって以来、山ガールに代表される若い登山者も大勢見受けられるようになった。2016年には「山の日」が制定され、山の楽しみ方は、一途に頂を目指すだけでなく、山ごはんや温泉など、山で過ごす時間の大切さを味わう多様な活動となってきている。今ではSNSやアプリを使って山仲間との情報交換を楽しんだり、自分の登山記録をログとして残すということも当たり前である。

 

そんな時代に、あらためて山に自分を投影して、自分の心の山を克服する事は、自分の心の成長にどんな意味をもたらすのだろうか?

このブログは、「心の高度」という概念に焦点を当て、自分の心を山に見立てて、自分の心の山を登り、心の高度を上げることを目的としている。
自分の心の山を登るための、様々な古今東西の知見を集約し、山登りのメタファーで語りかけていく。

 

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大山から弓ヶ浜を望む

 

空と山の稜線の境界、雲が流れている。

見渡せば大地と海が広がる、

この大地に足をつけて生きている私たち。

大地は繋がり、一歩一歩、歩き出せばどの山とも繋がっている。

 

この山もそうだ。

一歩一歩、ゆっくりゆっくり、足の置き場を確認しながら、何度も休憩し、水を飲み、汗をかきながら、自分の質量を位置エネルギーへと変換しながら登ってきた。

 

夏、頭のてっぺんからも相当の汗が出て、体中の水分が新しい水と入れ替わったとき、

ああ、今、山を登ってるんだ!と実感する。

冬、澄んだ空気は遠くの景色を見せてくれる。頬を刺す冷たい風も少し汗ばんだ身体にはちょうど良い。

 

眩しすぎる太陽、

夕闇、

暁の影、

様々な自然の様相。

 

鳥のさえずり、

虫の声、

沢の流れ、

木々のざわめき、

そして静寂も。

 

山に登り始めたのは最近だけど、

近場の低山が多いけど、

それでも山登りは楽しい。

今、立っているところと全ての山は繋がっているから。

 

星も大地も海も、この私自身もみな繋がっている。

すべてはひとつ。境界はない。

 

心の登山とは?

 

山登りをされたことのある方なら覚えがあるだろう。頂上を目指して一心不乱に昇る楽しさと苦しさ、樹林帯の美しい緑や稜線からの景色に目を奪われ、だんだん心が軽くなっていく。足元の花の可憐さや身体をすり抜けていく風の心地よさ、ちょっと一服したときに吸い込んだ空気と喉を潤す水の美味しさ。乗り越えなければ進めない岩をよじ登り、沢を飛び越え、そんな体験を重ねながら高度を上げていく。

やがて頂上にたどり着く。今まで見たことのない景色、遠くまで見渡せば様々な山の姿が現れる。一つ一つが違った山、尖った山、なだらかな山、連なって聳え立つ山々。視界いっぱいの青い空に囲まれて、昇ってきた自分の山を振り返る。

 

「だから山に登るんだ」

 

山は頂上まで登ったら必ず降りないといけない。この下りがまたそれなりに辛い。高い山や険しい山であるほど下りも辛くしんどい。

 

「ずっと頂上にいたい」

 

心の登山

心の登山は降りなくてもいい。どんどん昇って行けばいい。どんどん高度を上げて行けばいい。時にはのんびり休んでもいい。様々な心の山登りを楽しめばいい。

 

心の高度を上げる。

ゆっくりと、時には急登もあるだろう。

心の高度を上げていくと、今まで見えなかった景色が見えてくる。

開ける視界、遠くまで見渡せば今の自分の立ち位置がよりハッキリとわかる。

登る前は、四角いビルに囲まれて閉塞感で一杯だった心が自由になり、どこへでも行けるように身体も軽くなっている。

 

自分自身は元より、家族のこと、仕事の仲間や他人のことが理解ができるようになる。世の中のことがよく理解り、直感が働くように様々な答えが自然に降りてくるような感じが生じる。



エニアグラムの大家ドン・リチャード・リソの著書『性格タイプの分析』の第一章でリソはこう述べている。

「私たちは看守のいない独房に入っている囚人のようなものである。だが、誰かに無理矢理閉じ込められたわけではないし、外に出るための鍵も一緒にこの中にある。その鍵を見つけることさえできれば、扉を開けて自由になれる。しかし、私たちはその鍵がどこに隠されているのか知らないし、かりに知っていたとしても、私たちの中には牢獄を破って外に出るのを怖れる気持ちがある。(略)私たちは実際に自分自身の自我(エゴ)の囚人である。自分の怖れに鎖でつながれ、自分の自由を制限され、自分の状況に苦しんでいる。(略)

エニアグラムによって、私たちは、たくさんの扉を開けることのできるマスターキーを見つけている。この鍵は、私たちが自分自身を閉じ込めている牢獄から解放し、もっと充実した人生を楽しむために必要な知識を授けてくれる。(略)」

鍵を見つけ、鎖を外し、歩き出そう!

一歩ずつ歩き出せば景色は変わる。

そして心の山を登るのだ!心の高度を上げて最高の自分になるために!

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<目次>

1合目 心の山登りの準備

~日常の風景~

2合目 心の登山に必要な物

エニアグラムという心の登山地図~

3合目 登る山を決める(自分の性格タイプを知る)

エニアグラム基本タイプ診断~

4合目 自分の心の高度を知る

エニアグラム発達の諸段階~

5合目 登る方向を決める

エニアグラムの統合と分裂の方向~

6合目 登るために必要なエネルギー

~心的エネルギー~

7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~

8合目 高度順応

~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~

9合目 さらなる統合へ向かって心の山を縦走する

エニアグラムのタイプの頂を縦走する~

 

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山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ

その先にあるもの

 

 

9合目  さらなる統合へ向かって心の山を縦走する

9合目 

さらなる統合へ向かって心の山を縦走する

エニアグラムのタイプの頂を縦走する~

 

山の稜線に沿って縦走を楽しむ。360度の展望を見ながら北アルプスを縦走したい。森林限界を超えて、見渡すと青空から差し込む太陽に照らされて輝く、幾つもの頂へと続く尾根道。

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エニアグラムの発達の諸段階3から1に向かって、登り下りを繰り返しながら高度順応をしっかりと行うことが必要であると述べてきた。

統合の方向にあるタイプの健全な心理的特徴を自らのものにしていくことで、各段階を上に向かって登っていくことが可能になると説明してきた。

 

1→7→5→8→2→4→1 と 9→3→6→9

 

自分の基本タイプの山からスタートして統合の方向にある山を一つ一つ登っていく。発達の諸段階の3から2、1を統合の方向に向かって縦走することで人間としての全人格を統合することが出来るのだ。いわば人として生まれてきた本質が輝きだすのである。

ここで、1→7→5→8→2→4→1 と 9→3→6→9 を比べてみると、その距離に違いがあることに気がつく。

最初のパターンは自分の山に戻るのに五つの山を登ることになる。心の山を統合するために、より多くの山を縦走しないといけないわけである。もう一つのパターンでは自分の山に戻るまでに二つの山を登れば良いわけだがよく考えてみよう。山登りにおいて、同じ高度まで登るのに距離が短いと言うことは登り角度が大きいことを意味する。つまり急登をしなければならないということだ。

これは登るのにより多くのエネルギーが必要だということである。

多くのなだらかな五つの山を登るのと急登で二つの山を登るのと、結局は同じくらいの時間が必要だと言うことだ。

どちらの心の山の縦走をするのかは、あなたのエニアグラムの基本タイプによる。そしてどちらの縦走も、それなりにエネルギーと時間がかかる。

だが、自分の基本タイプ以外のタイプの特性を知り、それを自らの性格として統合していくことができれば、人としての健全な全人格を手に入れることになる。

 

サイコシンセシス(第1章 p34~p35より引用)

(3)第三段階 自分の真のトランスパーソナル・セルフに対する実感を伴う気づき

ー 統合する中心を発見する、あるいは創造する ー

 

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サイコシンセシス

ここで達成されるべき目標は、パーソナルな意識をトランスパーソナル・セルフの意識領域にまで拡大すること(図2に示すように)星へとつながる糸あるいは光線を伝わって高みへと登ること、そして低次の領域をトランスパーソナル・セルフと統合することに他なりません。しかしこれは文字通り、言うは易し、行うは難しの至難の業です。この目標の成就は壮大な課題を構成することになるはずですが、道のりは長く、また確かに非常に骨の折れる行程となるでしょう。すべての人がこの道を歩む準備ができているわけではないことも付け加えておかねばなりません。とはいえ、私たちの普段の意識領域という低地にある出発点からトランスパーソナル・セルフの実現化という輝かしい頂上に至るまでの間には、いくつかの中間点があるのです。段階に応じてさまざな台地が広がっていますから、途中で力尽きてしまった人や、意思の選択によってそれ以上の登攀を諦めた人たちは随意の場所で休憩したり、その場所を住居に定めて住みついてもいいのです。

さあ、ここまで登って来て、心の頂上を目指す明確な指針がイタリアのサイコシンセシスの著者ロベルト・アサジオリによって示されたと言える。

心の登山

心の登山は降りなくてもいい。どんどん昇って行けばいい。どんどん高度を上げて行けばいい。時にはのんびり休んでもいい。様々な心の山登りを楽しめばいい。

第一章で述べたこの言葉にも、信頼性が担保された。

パーソナル(自我)をエニアグラムによって統合し、真のセルフ(自己)を確立する。そしてセルフの上方に位置するトランスパーソナルセルフ(超越的自己)との統合を目指す事で更なる心の上昇が可能になるのだ。 

サイコシンセシス(第1章 p37より引用)

(4)第四段階 サイコシンセシス(精神統合)

ー 新しい中心の周囲にパーソナリティを形成する、あるいは再構築する。 -

統合する中心を見出すか、あるいは創造することができると、次はその周囲に新しいパーソナリティ、つまり首尾一貫した、秩序のある、統合されたパーソナリティを構築していくことになります。(略)

新しい中心とは、意識の中心である私ではなく、その上方にあるトラスパーソナル・セルフのことを示している。それはその人が理想とする目標を外部に投影し、その理想イメージとつながることでトランスパーソナル・セルフとの接点を得ようとするが、その理想化されたイメージは、カレン・ホーナイ神経症のメカニズムで述べた「理想化されたイメージ」ではない。

私たちが描き出す「理想のモデル」あるいはイメージにもいろいろあるものですが、基本的には二つのタイプに大別できると思われます。はじめのタイプは調和のとれた発達や全人格的なあるいはトランスパーソナルな完成を表すイメージとして描き出されます。(略)

二つめのタイプは特殊な能力を示しています。(略)芸術家、教師、何か良いことの推進者などの理想のモデルはこのタイプに属するものといえます(略)

いったん理想のモデルの形態を選択したうえで、実用的なサイコシンセシス、すなわち新しいパーソナリティの実際の構築作業が始まります。サイコシンセシス(第1章 p39より引用)

ロベルト・アサジオリが述べている二つの理想のモデルのうち、私がここで説明をしているのは正に前者のイメージである。エニアグラムの統合の方向にある各タイプの性格の良いところを順に回ることで、パーソナル・セルフの中心が定まり、そしてその上方にトランスパーソナル・セルフが輝いているということだ。高く登るためには、中心をしっかりと真ん中に根ざしておかなければ上がることは出来ない。

 (エニアボールとサイコシンセシスの統合された図)

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ドン・リチャード・リソ著『性格タイプの分析』(p320〜本質と発達の諸段階より抜粋)

本質と<発達の諸段階>との関係は、視覚化することができる。

本質の中に生きるためには、私たちは<統合の方向>に向かって動き、そこで発見される健全な<諸段階>を完全なものにして、さらに上方を目指していかねばならない。

人が性格の否定的な側面から解放されるにつれて、本質が姿を現してくる。もっと適切に言えば、本質と性格の均衡は、より多くの自我が本質(つまり、正確には存在の深奥から)によって生きるまで、性格から本質の方へ移動する。その一方で性格は有益で必要な道具として使われるようとどまっているが、それは単に、より深い本質的な自我ーそれが「本質の中に生きること」であるので、突き止められないまま残っている自我ーの拡張と表現としてだけである。性格が普通の日常生活の中で自我を表現することがなければ、私たちは互いに意思を通わせることはできないであろうし、究極的には、自分自身の本質さえ失われ、あるいは、現れないままになるであろう。

このように、性格は本質と同じように必要であり、世界の中で生き、世界に貢献するために用いられなければならない。性格は私たちの本質を示現するが、その優れた面は、それぞれのタイプごとに第一から第三段階で見ることのできる「健全な」性格の状態である。加えて、自分自身が発達するにつれて、これらの性格の状態それ自体が発達して本質的自我のより優れた表現となる。ひとたび統合が始まり、もっと自然に本質の中で生きるようになれば、私たちは自我の支配者となり、次第に自分自身を自由に、かつ適切に表現できるようになる。もはや自我が私たちを支配するのではなく、本質が自我を通して語ることになる。

この心の高度では、閃き、つまり直感に任せることが可能になる。今この瞬間に心を開いているだけで、思考に正解が自然に生じてくる。答えが、言葉としても行動としても上から降りてくるような感覚。

わたしは個人的にはエニアグラムの全性格タイプを周りきる必要はないと思っている。それよりも各タイプの健全な潜在能力を前向きに活用できるだけでも、充分に心は軽くなり、自由にどこへでも行けるようになる。

目の前の景色は以前とは違い、より高みから遠くまで見通せるようになるのだ。

あとは楽しみながら、足元の花や草、季節ごとの木々の彩りと揺らめき、太陽と風のハーモニーを味わいながら、山頂での景色を存分に楽しもう。

 苦行で山に入る修験者を否定するわけではない。それはその人なりのスタイルでいいと思う。私たちは自分のやり方で普段の山登りと同様、心の山登りを楽しむべきである。

 

とは言うものの、トランスパーソナルセルフとの心の統合というその先の道があるのならばその場所からは一体何が見えるだろうか?

新たな、まだ見たことのない全く新しい景色への誘いが待っているのだろうか?

 

神曲においてダンテが煉獄の山を登り終えて辿り着いた地上の楽園には、清流が流れ、優しい風が吹きわたっていた。かぐわしい大地には花々が咲き、小鳥が囀っている。

 

「・・・息子よ、おまえは見た。そしておまえが着いたこの地はもはや私の力では分別のつかぬ処だ。私はここまでおまえを智と才でもって連れてきたが、これから先はおまえの喜びを先達とするがよい。峻険な、狭隘な道の外へおまえはすでに出たのだ。正面に輝くかなたの太陽を見ろ、草花や樹々を見ろ、ここではすべてが大地からおのずと生えている。涙を流しておまえを連れて来るように私に命ぜられた美しい喜ばしい目をした方が見えるまでは、おまえは座るのも自由、草木の間を行くのも自由だ。もうこれ以上は私の言葉や合図に期待してくれるな。おまえの意志は自由で、直くて、健やかだ。その意志の命令に服さぬことは過ちとなるだろう。だから私はおまえをおまえの心身の主として冠を授ける」

 この表現はダンテにそれまで付き添い、導いてきたウェルギリウスが最後に語りかけた言葉なのだが、ダンテがパーソナルセルフの頂点、つまり最高の自分の位置にまで登ってきたことを表しているのではないだろうか?エニアグラムでいう発達の諸段階の1の状態、解放のレベルだといえるだろう。神曲ではまだこの続きがある。この後ダンテは、導師をウェルギリウスからベアトリーチェに換え、天国編の旅が始まる。あえて言うならば、トランスパーソナルサイコセンシセスからの導きがベアトリーチェという姿となってダンテを最高の自分のさらに上へと誘うだろうか?

 

私自身、未だ心の山を登っている真っ只中であり、頂上は見えず、統合への道程はまだまだ長い登坂となりそうである。ですが、この先の景色が楽しみであり、心は軽やかである。

ありが登山(ありがとさん)、ご苦労山(ごくろうさん)、お疲れ山(おつかれさん)

足の踏み場になってくれる石に、取っ手のように突き出ている木の根に、台風で横たわっている倒木に、ありがとさん、ごくろうさん、おつかれさん、と声をかけながら山を歩いている。自分の右足に、左足に、筋肉に、細胞に、ありがとさん、ごくろうさん、おつかれさん、と心の中で唱えながら山を歩いている。友と語らいながら、すべてのことに感謝しながら、今、山を歩いている。少しずつ、一歩ずつ、心の高度を上げながら心の登山を楽しんでいます!

 

気づきによる知識と経験の血肉化

知識は意識の焦点を変え、思考の変化を促し、そこに気づきが生まれる。気づきは思考の選択肢を増やし、思考の選択肢が増えると新しい行動に繋がり、それを意識の力で訓練することで習慣化される。これが知識と経験の血肉化である。(6合目でも述べました)

血の化 肉の化 素骨の化(ちのけ にくのけ すこつのけ)

さまざまな知識を血と化し、さまざまな経験を肉と化し、そして最終的にはそれらを削ぎ落して骨と化す。

この言葉を最後に、この章を終えたいと思います。

 

<コーヒーブレイク>

~播隆上人の槍ヶ岳開山~

槍ヶ岳を開山した播隆上人のことを小説にした新田次郎氏の作品を紹介したいと思います。

 

新田次郎槍ヶ岳開山』

江戸時代

米問屋の手代であった岩松は、富山八尾(やつお)の一揆打ち壊しの際に誤って最愛の妻、おはまを自ら手に持った槍で刺し殺してしまう。後悔と懺悔と、どのみち普通の生き方は出来ないという諦めの思いもあり、出家して修行僧として生きる決心をする。

飛騨の椿宋(ちんじゅ)和尚を訪れた岩松は、そこから上方、宝泉寺見仏上人の元で修行をすることになる。岩仏という名を授かり、托鉢や瞑想など四年間という厳しい修行を経て、一念寺 誉和尚によって播隆に改名、その後三年間の間、念仏行者として諸国を遍歴した。伊吹山の岩窟で乞食坊主と石を投げつけられたり、幾多の山で瞑想したりするうちに、体つきはいかめしくなり、その風貌にも威厳が現れてきた。本人はそのようなつもりはなかったが、周りが播隆を上人様と崇めるようになり、やがて椿宋(ちんじゅ)和尚の事業僧としての構想に巻き込まれて、笠が岳の再興に踏み出す。見事、笠が岳の山頂に立ち、再興を果たした播隆は、そこでブロッケン現象による虹の光彩の中に立つおはまを見た。おはまはやがて遠くの山に消えて行った。その消えた先に聳え立つ山こそが未だに誰も登頂したことがない槍ヶ岳であった。

それからの播隆は、槍ヶ岳開山に向けて、個人的には再びおはまに会うため、天下のためには五穀豊穣を祈り、槍の穂先に立つため、協力者を取り付けてそれを実行していった。

1828年、7月28日、ついに播隆は槍ヶ岳の頂を踏んだ。故郷の八尾の村を追われるように出てから15年の月日が経っていた。祠を作り仏像を安置し終えた播隆の前に再びおはまが現れた。それは五色に彩られた虹の輪の中の阿弥陀如来として姿を現した。やがて如来はおはまとなったが、その眼差しは播隆へ向けられた憎悪の目のままだった。許しを請うために一心不乱に念仏を唱える播隆の願いは届かず、おはまは白い霧の影の中へと消えて行った。

おはまの許しを得るため、また誰でもが槍ヶ岳に登れるようにするため、鉄の鎖を槍の絶壁に掛ける事業に邁進する播隆。58才の時に念願は叶うが、槍ヶ岳への善の鎖をかけるための調査登山の際に凍傷で失った足の指や老体での過酷な登山や念仏修行の反動は、播隆をおはまの元へと導くのであった。

 

この小説は播隆の槍ヶ岳開山という偉業を縦軸に、亡きおはまへの思慕と後悔、そして弥三郎という播隆に執着する商人をはじめ、播隆を利用して名を成したい地域の有力者、徳念と柏厳尼という二人の弟子の禁断の恋、これらの人々に加えて、貧しい百姓たちの暮らし、現代とは違う生きにくさなどを織り込んだ話となっています。特に天保という時代背景は飢饉による不作や幕府への不満、堪り兼ねた農民による一揆などが行われたという、今よりもずっとずっと貧しい時代です。

人々にとっては生きて行くだけでも大変な時代、マズローの欲求段階では生存欲求、安全欲求を満たさなければならない一番低次のレベルであり、エニアグラムの発達の緒段階では段階6ー7ー8ー9への神経症から死に向かう螺旋の中で、もがいている状態と言えるでしょう。

そんな中、播隆は仏の道を志し、念仏行者として修行を重ねるうちに心が鍛えられ、段階3の高度へと登ったと思われます。まだ岩松を名乗り、八尾の一揆で怒りに任せて槍を振るってた時は段階6の高度、そこから悔いを改めるために出家を決心した時が段階4の高度と言えるでしょう。おそらくエニアグラムの基本タイプが1である播隆は修行も一切の手を抜くことなく、懸命に行ったと思います。

天保の大飢饉の際に、苦しみに対する怒りを他者(物持ち、名主、代官)に向けていた神経症的な百姓たち。鬱憤をはらす対象がもうなくなったその時、そこに現れた播隆に捌け口を見つけて、竹槍を持って襲いかかろうとします。向かってくる集団の竹槍に対して、戦うでもなく、逃げるでもなく、ただ正面に受け入れて対峙した時の播隆の心の高度は、解放の境地にいたのかも知れません。

播隆は竹槍に向かって歩を進めながら、死を恐れているのでもなく、死を望んでいるのでもない、遠くに行った自分の心を追っていくような気持ちになっていました。自分の差し出した槍の前に、自らの身体を差し出したおはまは一体どんな気持ちだったのでしょうか?


人の心は通常、心の重心を段階5のレベルに置いて、上下一段階の振れ幅で揺れ動いています。天保の大飢饉のような未曾有の厄災に襲われたならば、人としての心の重心は落ち込みます。

播隆のように厳しい修行を積み、槍ヶ岳開山という大きな目標、遣り甲斐を見つけて一心不乱に己を捧げることが、心の高度順応を可能にしたのでしょう。

 

小説の中で播隆が法話の際に、笠ヶ岳再興の話に触れる時、

「私は念仏行者ですから、諸国を念仏しながら歩きました。岩窟にこもることもありましたが、今度の笠ヶ岳再興で私は山へ登ることが瞑想に(精神統一)近づくことのてきる、もっとも容易な道のように思われるました。山の頂きに向って汗を流しながら一歩一歩を踏みしめていくときには、ただ山へ登ること以外は考えなくなります。心が澄み切って参ります。登山と禅定とは同じようなものです。それは高い山へ登って見れば自然に分かって来ることです。なにかしら、自分というものが山の気の中に解けこんでいって、自分がなんであるか、人間がなんであるか、なぜ人間は死なねばならぬか、そういうむずかしい問題さえ、自然に山の気が教えてくれるようにさえ思われて来るのです。そのような境地は登山によって身を苦しめて得られるのではありません。登山はけっして苦行ではなく、それは悟りへの道程だと思います」

 と述べています。

この語りは、私に新しい力を与えてくれます。ただ純粋に山に登ることが、心の修行、自然に心を鍛えることに繋がるのです。

 

また播隆は、生きるために念仏を論じながら一心不乱に生きようとすることと、一心不乱に山に登ることとが同じであるとも語っています。

槍ヶ岳の開山にあたり、

「山を登ることは人間が一心不乱になれることです。一心不乱にになって念仏が唱えられる場所が登山なのです。悟りに近づくことのできるところなのです。悟りとは何事にも心が動かされなくなることです。死を恐れなくなることです。われわれは凶年の山をまだまだ登らねばならないでしょう。一心不乱に登るのです。けっして凶年に負けてはいけません、登るのです。」

 このように論じて法話、説教の中で槍ヶ岳の開山の意義を説いていた播隆ですが、槍ヶ岳への善の鎖掛けを果たし、自身の最後を予見すると、中田又重郎と穂刈嘉平に次のように漏らしています。

「私は、槍ヶ岳開山について、いろいろまことしやかなことを云ったり書いたりしたが、そのどれも本当のものではない。槍ヶ岳開山の意味が本当にわかっている人は、最初からこのことに尽力して来たあなた方お二人だけだろう。山は登ってみなければ結局は分らない。私もほんとうはまだ分かっていないが、もはや登れなくなった。どうかお二人で私の後を継いで下され、槍ヶ岳の絶嶺にかけた鎖をお守り下され。」

 

山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ  に続く

心の山頂へのアタック

8合目 高度順応

8合目 高度順応~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~


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エニアグラムの発達の諸段階を3から段階2、そして段階1へと登るためにはどうしたら良いのだろうか?

今あなたは発達の諸段階3から2のレベルまで登っている。ここから、より上の高度を攻めるには高度順応が必要である。

登山において高度が人に与える影響は非常に大きいと言える。

ウィキペディアによると、「地球の大気圏内では、高地への移動などにより高度が上がるにつれ、気圧や気温が低下し、人の呼吸に必要な酸素を含む空気が希薄になるためである。ヘモグロビンの酸素飽和度は、血液中の酸素の量を決定する。人体が海抜高度2,100mに達すると、酸素で飽和したヘモグロビンの割合は急落し始める。」とあります。そのため富士山などの3000m級の山を登るためには、その高度に体を慣らすための高度順応が必要になるのです。

心の山を登る場合も同じく高度順応の期間が必要なのだ!


高度順応と高度維持

段階3以上の心の高度を保つためにはどうしたら良いのだろうか?せっかく週末に山に登って心をキレイにしても月曜日からの仕事で俗世間の垢に塗れている間に、心はどんどん汚れて高度も落ちてしまう。何故なのだろうか?どうすれば心の高度を高く保てるのだろうか?


スティーブン・ピンカーの「心の仕組み」では、心も自然淘汰の産物であると言う。自然淘汰により狩猟採集時代からの問題解決に役立つように心も進化したきたのだ。人間は他人の心を直接理解することは出来ないが、他人の言葉や表情、仕草から相手が何を考えているのかを読み取る事が出来る。

嫌悪

恐怖

嫉妬

怒り

愛情

疑念

驚き

喜び

悲しみ

等々


スティーブン・ピンカーはこれらの情動についてある理論を提示している。

(心の仕組みより引用)

それは精神の活力源をエネルギーではなく情報とみる心の計算理論と、複雑な生体システムの逆行分析を必要とする進化理論とを結びつける。これから示すように情動は進化的適応であり知性と調和して働く、心の機能に欠かせない、よくデザインされたソフトウェアのモジュールである。情動が持つ問題点は、制御のきかない力であるとか、動物だった過去のなごりであるということではない。問題は、情動が遺伝子の複製を増やして伝えるためにデザインされたものであって、幸福や知恵や道徳的価値観を促進するためにデザインされたものではないというところにある。私たちはよく、集団の対人関係に有害な行動や、長期的にみて本人の幸福をそこなう行動、おさえがきかず説得も受け入れない行動、あるいは自己欺瞞の産物などを「感情的」と表現する。しかし残念ながらこれらは誤動作や不具合ではなく、よく設計された情動なら当然そうなると期待されるとおりの結果なのだ。

つまりは人も動物も生き抜くためには他者との軍拡競争を繰り広げなければならなく、相手を出し抜くための様々な戦略が互いに進化する。裏切りを見抜く、好意的な相手とは友好関係を築く、やられたらやり返す。そのためには複雑な思考と結びついた感情が、見せかけの情動や真の情動を進化させ、またそれを見極めるような感性を進化させる。

それゆえ私たちは他者の感情に共感したり、忌み避けたりということを知らず知らずのうちに行っているのである。

無意識的に社会や他人の影響に晒されて、過敏に反応してしまうのだ。

各タイプが根元的に持っている恐れや段階を下降するためのスイッチとなる感情。

心の演算理論では、信念とはメモリに格納された長期的な記憶と短期的な記憶から呼び起こされ、欲求として一連の演算が処理される。思考は演算であるという。

潜在領域に格納されている情念を含めて思考としての演算が行われる結果、半ば自動的に心の高度を低くする欲動が働き出すのだろう。この自動計算を止めるためには、自分の心の動きをモニターして自らの意思の力で計算をストップさせることが必要である。

また利己的な遺伝子が自らの複製を増やす目的ならば、血縁は淘汰を促進することになるわけで、家族という居場所は心地良くなければならない。家族との関係を意義あるものにするための努力は無駄ではなく、高度順応のための大きな助けとなるだろう。

同様に山や自然の中で出来るだけ長く過ごすことは、過敏な心をリラックスさせて心の高度を高く保つために有効な手段と言える。

 

パーソナルサイコシンセシスによる自我の統合

イタリアの精神科医ロベルト・アサジオリが唱えたサイコシンセシスという概念。セルフという自己を中心にして、その周りに様々な特質を統合していくという考え方である。

 

サイコシンセシス(第1章 p27~p28より引用)

(図)

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通常の生活のなかで私たちは幾重にも制限を受け、縛られています。つまり、錯覚と幻想の餌食であり、意識されていないコンプレックスの奴隷であるとともに、外的な影響によってあちこちへと弄ばれる存在であり、偽りの外観に分別を失わされたり惑わされたりしているのです。そういうわけですから、このような状態にある人間がしばしば不満足を覚えたり、不安を感じたり、気分や思考、行動が変わりやすかったりしても不思議はないはずです。直感的に自分が「一つ」であることを感じ取ってはいるものの、「自分と自分自身が分割されて」いる姿を見出すとき、人間はうろたえてしまい、自分自身や他者を理解することができなくなってしまいます。自分自身を知らないし、理解できないとすれば、自分自身をコントロールすることもできず、自ら犯した過ちや自分の弱さにひっきりなしに振り回され続けることになってしまいます。(略)

さて、人生におけるこの中心的な問題を解決し、人が人であるがゆえの根本的な弱さを癒すことができるのでしょうか、もしできるとすれば一体どのようにすればよいのかについて吟味してみることにしましょう。まずこのような奴隷的状態から解放されて、調和のとれた内なる統合状態に到達し、真の(トランスパーソナル・セルフにおける)自己実現を達成して、他者との正しい関わり合いに入っていくにはどうすればよいのでしょうか。(略)

 

(1)自分のパーソナリティについての徹底的な知識をもつ。

(2)パーソナリティにおけるさまざまな要素をコントロールする。

(3)自分の真のトランスパーソナル・セルフに対する実感に伴う気づきー統合する中心を発見する、あるいは創造する。

(4)サイコシンセシス(精神統合)ー新しい中心の周囲にパーソナリティを形成する、あるいは再構築する。

さて、まさにエニアグラムがそのための知識と地図となることがお判りだろうか?

この章、高度順応では(1)~(2)についての考察を行い、(3)~(4)のトランスパーソナルサイコシンセシスについては、

次の章、9合目さらなる統合へ向かって心の山を縦走する~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~

において見解を述べたい。

 

では、

(1)第一段階 自分のパーソナリティについての徹底的な知識をもつ

から順に考察していくこにする。

振り返りになるが、これはまさに3合目の章で解説した「登る山を決める」による性格タイプを特定し、そのタイプごとの特徴と心理的なメカニズムをしっかりと理解することに他ならない。このことは、サイコシンセシスにおいてもその探索は可能であると述べられている。

 

サイコシンセシス(第1章 p30より引用)

個人でも独自にこの探索を行うことはできますが、他者の助けを借りればより容易に成し遂げることができます。どのような場合にしろ、純粋に科学的な観点から、最大の客観性と公平さを保ちつつ技法を展開していかなければなりません。偏った理論に左右されることなく、また自分自身の恐怖心や欲望、情動的なしがみつきなどによる隠された抵抗や、激しい抵抗のために途中で思いとどまってしまったり、迷ってしまうことがないよう十分自らを戒めなければなりません。(略)

このようにして私たちは、自分自身のなかにあるにもかかわらず、これまで知らないでいた能力や本当の資質や高次の可能性を見出していくことになります。これらの素晴らしい潜在可能性は、自らを表現する機会を求めているのですが、私たちの理解の欠如や偏見、恐怖などのゆえに、しばしば拒絶されたり、抑圧されたりしているのです。さらに、すべての人のなかに内在している莫大な未分化の心的エネルギーのたくわえも見出すことになるでしょう。このエネルギーは私たちの無意識領域における実在的な部分で、それをどう用いるかは私たちに任されています。無限大の学ぶ能力と創造力を私たちに提供してくれているのはこのエネルギーなのです。

これらの心的エネルギーを解放し、さらに心の高度を上げるためにはサイコシンセシスの第二段階である、パーソナリティにおけるさまざまな要素をコントロールしなければならない。

 

 (2)第二段階 パーソナリティにおけるさまざまな要素をコントロールする

 サイコシンセシス(第1章 p31より引用)

ー 脱同一化の技法 ー 心理的原則の一つ

私たちは自己同一化しているすべてのものに支配されます。私たちは自分が脱同一化するすべてのものを支配し、コントロールすることができます。

この原則には私たちが縛られて生きるのか、あるいは自由に生きるのかを決定する秘密が隠されています。弱さや過ちや、恐怖、あるいは個人的な衝動などに自分自身を同一化してしまうと、自らを制限し、麻痺させてしまうことになります。(略)

(a)有害なイメージやコンプレックスをバラバラにする。

(b)その結果解放されたエネルギーを活用する。

との記述がある。これは一体何を意味するのだろうか?具体的に何をどうすればよいのだろうか?

自らの性格タイプの衝動に気づくこと、客観的に自分を分析し、エニアグラムの統合の方向にあるタイプの肯定的な特性を自覚的に取り入れていくこと、現在の心の高度に応じた発達段階をしっかりと見極めて、意思の力によって自らをコントロールすることが何よりも重要になってくる。

 

(既出の発達の諸段階の説明より)

段階3~社会的価値の段階

二次的(派生的)な怖れと欲求への屈服に対応して、その人の自我は一層活動的になり、社会的・対人的な資質をもった特徴的なペルソナをつくり出す。自我もペルソナも防衛機制によって守られているため、まだ健全ではあるが以前ほどではなくなっている。この段階ではそのタイプが他人に対して示す健全な社会的特徴がみられる。性格、自我および防衛が影響を及ぼしているが、さほど均衡を欠いてはおらず、<根元的怖れ>を克服し<根元的欲求>に正しく基づいて行動することによって、段階1の機能を獲得する(あるいは取り戻す)ことができる。

タイプ特有の社会的価値を見出し、他者への貢献が見られる。

タイプ1では、行動指針と客観性

タイプ2では、寛大さと奉仕

タイプ3では、功名心と自己開発

タイプ4では、個性と自己表現

タイプ5では、知識と専門的能力

タイプ6では、現実参加と協力

タイプ7では、実用性と豊かさ

タイプ8では、権威と指導力

タイプ9では、安定と育成


この段階で統合の方向に向かってじっくり登り下りを繰り返すことで徐々に段階2、そして段階1の高度へとゆっくりゆっくり順応していく。

統合の方向とは、自分の基本タイプのさらなる統合と人格的成長を記すもので、

1→7→5→8→2→4→1と9→3→6→9で示される。繰り返しになるが自分の基本タイプから出た→の方向にあるタイプの健全な心理的特徴を自らのものにしていくことが、心の高度を上げるための地味な作業となる。


同様に、

(既出の発達の諸段階の説明より)

段階2~心理的受容力の段階

もし自分の<根元的怖れ>に屈服すれば、この段階では<根元的欲求>がそれを補償するために生じる。結果として、まだ健全ではあるが、<根元的怖れ>に屈服することによってつくり出された不安に対応して、自我とその防衛機制が発達し始める。自己感覚と「認識法」がこの段階で現れる。<根元的欲求>は、普遍的かつ心理学的な人間の要求であり、それに正しく基づいて行動すれば、各人の必要を満たし、また自己を超越するための鍵ともなる。

健全な心の状態で心理的受容力が発達し、自己感覚が現れる。

タイプ1では、理性が発達し、「合理的」であると感じる。

タイプ2では、感情移入が発達し、「人の面倒を見る」と感じる。

タイプ3では、適応力が発達し、「望ましい人間」だと感じる。

タイプ4では、自己認識が発達し、「直観力がある」と感じる。

タイプ5では、観察力が発達し、「洞察力が鋭い」と感じる。

タイプ6では、感情からの義務が発達し、「人に好かれる」と感じる。

タイプ7では、反応力が発達し、「幸せである」と感じる。

タイプ8では、自己主張が発達し、「力がある」と感じる。

タイプ9では、受容力が発達し、「平和を好む」と感じる。

 

段階1~解放の段階

<根元的怖れ>と対決し、それを乗り越えることによって解放され、自己超越の状態へと動いて自己を実現し始める。逆説的であるが、同時に自分の<根元的欲求>を達成し、それによって自分の真の必要を満たし始める。さらに、タイプによって異なる特別な精神的資質と長所が現れてくる。これは理想的状態で、個人が最も健全な状態にあり、均衡と自由を獲得する。

この解放の段階の心の高度で最高峰に至るといえる。


タイプ1では、洞察力に優れ、寛容になっている状態。

タイプ2では、無欲で、利他主義

タイプ3では、自己容認が進み、真正さが現れている。

タイプ4では、自己改革の末、創造性に溢れている。

タイプ5では、理解力がずば抜けて、様々な発見をする。

タイプ6では、自我確認でき、勇気を持つ。

タイプ7では、環境と同化し、感謝の念に溢れる。

タイプ8では、自制が利き、他者への愛情に満ちている。

タイプ9では、沈着さが周囲を平和にし、達成の境地に至る。


各段階で高度順応をしっかりと、じっくりと、ゆっくりと行うことが大切であり、あなたの心と身体が一つになり、ストレスに負けない健全な状態を維持することが可能になる。実際の登山においても高度順応に必要なのは、充分な時間と酸素(呼吸)と水(水分)と休息(睡眠)なのだ。

 

<コーヒーブレイク 呼吸のエネルギーの仕組み>


呼吸とは、食物として体内に取り込まれたブドウ糖(C6H12O6)を細胞の中で酸素(O2)を使って燃やし、エネルギーを得ることです。酸素は血液のヘモグロビンによって細胞へ運ばれます。では、ここでいうエネルギーとは何でしょうか?

呼吸によってエネルギーが得られる仕組みをもっとミクロな視点で見てみると、酸素という強力な酸化剤がブドウ糖から電子を剥ぎ取り(酸化反応)、剥ぎ取られた電子は細胞内のミトコンドリアの内膜の中で呼吸鎖と呼ばれる4つの分子複合体に順番に受け渡され、電子の流れが起こり、ここでの連鎖的な酸化還元反応によってエネルギーが放出されているのです。この放出されたエネルギーをいつでも使えるように保存する仕組みが必要です。1929年、カール・ローマンがその仕組みを発見しました。それはATP(アデノシン三リン酸)というアデノシンが3つのリン酸基と鎖状につながった不安定な形状をした分子から、末端のリン酸基が一つ外れると大量のエネルギーが発生するというものでした。

ATP → ADP + P + エネルギー

ATP ← ADP + P + エネルギー

エネルギーの通貨と呼ばれるこのATPを合成するために、呼吸が必要なのです。

その合成の仕組みは、呼吸鎖の4つめのATP合成酵素プロトンポンプによってATPを生み出します。

簡単にまとめると、ブドウ糖から剥ぎ取られた電子がミトコンドリア内の内膜内で呼吸鎖に受け渡される時の酸化還元反応で生じたエネルギーによってミトコンドリアの内膜の内側から外側にプロトン陽電子)を汲み出します。結果、膜を挟んで内側と外側にプロトンの濃度差が生じ、濃度の高い外側にプロトンが貯まることで(ダムによる水位差を使った水力発電の仕組みのように)電位差とpH濃度差を利用してATP合成酵素を駆動させてATPを産生するのです。

 

 

 

7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

7合目 森林限界を超えて〜自我の統一

~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~

 

さあ、心のエネルギーが満たされ、その補充方法も手に入れることができた。ここからは高度を上げる事自体が欲求であり、目的となる。

森林限界、それは環境によって高木が育たずに森林を形成することができない境界線を意味する。登山においては、それまで森で視界を遮られていたのがハイマツなど背の低い樹木に変わることで一気に視界が開ける場所である。時期によっては高山植物の花々が咲き乱れ、そこでしか見ることのできない美しい景色と出会うこともある。山の稜線に沿って頂上を目指すとき、この美しい花々たちは疲れた身体を癒してくれ、心も前に向かって躍り出す。改めて自分が登ってきた高さに気づき、新しい空気に触れて深呼吸をしたくなる瞬間である。

しかし、この高度に上がるまでには随分と長く、苦しい道のりだった。

心の森林限界の向こうへ、つまり発達の段階3から2に高度を上げるためには自らの心が暗黙裡に閉ざしてきた扉の向こう側を見る事が必要になる。自分の心を制限している仮面(ペルソナ)という心理的制約を解き放つ事が必要だ。山登りに仮面をつけて登る人はいないと思うが、仮面(ペルソナ)を付けたままでは息苦しくてすぐに酸欠になってしまう。普段の生活においても仮面(ペルソナ)を外し、身体全体で呼吸をしよう。

 

ケン・ウイルバー著『無境界』7章仮面のレベル/発見の始まり(p147〜)

下降と発見の始動は、人生に満足していないことが意識された瞬間にはじまる。大半の専門家の意見とは逆に、この人生に対する耐えざる不満は「精神の病」の兆しでも、社会にうまく適応できないことを示すものでも、人格の崩壊でもない。人生と存在に対するこの根本的な不満の内には、一般に社会的覆いの重圧の下に埋もれているある特殊な知性、成長する知性の萌芽が秘められている。人生の苦しみを実感しはじめている人物は同時に、より深いリアリティ、より真実に近いリアリティにめざめはじめている。苦しみは、リアリティに対する標準的な作り話の自己満足を打ち砕き、ある特殊な意味でわれわれをよみがえらさずにはおかないからである。それまでわれわれが避け続けてきた仕方で自己と世界を注意深く見つめ、実感し、ふれるようになるのである。苦しみは最初の恩寵であるといわれてきたが、わたしはそれは真実だと思う。ある特殊な意味で、苦しみとは歓喜の時であるとさえいえる。創造的な洞察の誕生を記しているからだ。

 

ここでケン・ウイルバーが述べているように、漠然としているがこのままでは良くないという不安、何かが足りないという欲求、マズローの欠乏欲求とは質の違う、直接的ではないが明らかに何か欲している自分を感じる時、開けるべき新しい扉を発見する事ができる。

人生50年も生きてくると、それなりの生活を手に入れてそこそこ満足している自分に気づく。仕事場での職位、肩書き、男性ならば家庭での父親として、夫としての尊厳を、女性ならば母として、妻としての献身など、それまでにも成長に応じて様々な役割を自らに課してきた。ユングは人間がこの世の中を生きていくためには社会と調和していくために割り振られた在り方というものを身につけて行かねばならない、外的環境は個人に対して様々な要請や期待を課し、人はそれに応じて行動せねばならないという。教師は教師らしく、父親は父親らしく。人間は外界に向けて見せるべき自分の仮面(ペルソナ)を必要とするのだ。各人が適切なペルソナを身につけることでこの世の中は円滑に動いていると言える。だからこれは必要であり、また当たり前の事と感じる。しかしながらこのペルソナが硬直すぎると、その人は人間的な味わいを失い、個性が感じられなくなり、存在が固定化してしまう。自分の本当の心との繋がりが失せ、芝居の中で役を演じるだけの人生になっているのである。そしてそのことに満足している自分がいるのだ。

そして満足しながらもどこかしら満足できない、言葉では表現できないようなチリチリとした焦り、不安に駆られる時、何かを求めて動かざるを得なくなるのである。

 

何を求めて動き出せば良いのだろうか?

 

仮面(ペルソナ)vs 影(シャドー)という対立を理解することから始めることにする!

影の投影のメカニズム(p154-)

仮面とは多少不正確な痩せ細った自己イメージである。これは怒り、自己主張、性的衝動、喜び、敵意、勇気、攻撃性、動因、興味などの自分自身の特定の傾向の存在を否定しようとするときに生み出されるものである。だが、いくらそれらの傾向を否定しようとしても、それらが消え去るわけではない。これらの傾向はあくまでも当人のものであり、せいぜいそれらが誰かほかの人のものであるふりをするのが関の山である。事実、自分でなければ誰でもよいのだ。つまり、これらの傾向はほんとうに否定できるわけではなく、単にその所有権が否定されるだけである。

人はこのようにして、これらの傾向が外にある異質な非自己であると実際に思い込むようになる。好ましくない傾向を除せんとして、自らの境界を狭めたのである。そのため、これらの疎外された傾向は、影として投影され、当人は残りの狭められ痩せ細った不正確な自己イメージである仮面だけと同一化するようになる。 

ユングは影(シャドウ)について、

「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのことー例えば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向ーを人格化したものである」

 と述べている。

 

好ましくない影は他者へと投影され、残された仮面と同一化した自分は影と戦うことになる。なぜなら自分が好まない認めたくない嫌な面を持った他人とは仲良くできるはずがない。何かにつけ、気になり、嫌な面が目に入り、その人の悪口を言うはめになる。

 

また誰かから何らかの圧力を受けていると感じたり、例えば上司や妻、会社、学校、部活での〜をせねばならない、という義務感を感じている場合は、実は自分自身の中に〜をやりたいという動因やエネルギーがあるにもかかわらずに、その存在に気がついていない状態なのだ。

 

このように投影された影は、その影に隠された自分自身からのメッセージに気がつくためのチャンスと捉えることができる。

 

他人のことをとやかく言う時、よくよく考えてみれば自分にも当てはまることに気がつく。同じ年位のおじさんがちょっと頑張った服装をしていると、「おっさん、いきってるけど似合ってないで」と思ってしまうのは、実は自分が他人からそんな風に見られてるのでは?という思いをおじさんに投影してるということだ。誰かの非難や中傷をしてるときは、それは自分への言葉だと気がつくことが大切である。
他人のことをどうこういう暇があったら、というか、そもそも他人のことを気にしないで自分の心を高めることが大事なのだ❗

 

受容と変換(p169〜)

影の投影は「外の」リアリティ観を歪めるだけでなく、「内の」自己感覚も大きく変えてしまう。わたしが何らかの情動や特徴を影として投影すると、もはやそれを歪んだ幻想的な形でしか知覚しなくなる。ー「外の対象」に見えるのである。同様に、その影を感じはするが、歪んだ幻想的な形でしか感じない。影が投影されてしまうと、それを症状としてしか感じないのである。~

影が症状になってしまうと、かつて影と戦ったようにその症状と戦う羽目になる。何であれ、自分自身の傾向を否定しようとすると(影)、それらの傾向は症状として現れてくる。そして、かつて影を自分自身から隠したように、自分の症状(震え、劣等感、落ちこみ、不安など)を他人から隠そうとするであろう。

 

このレベルにおけるセラピーの第一歩は、症状を受け入れ、余裕を与え、それまでさげすんできた症状と呼ばれる不快感に親しむことである。自覚をもって症状にふれ、できるかぎり心を開いて受け入れなければならない。これは自分自身が落ちこんだり、不安になったり、拒絶されたり、飽き飽きしたり、傷ついたり、困惑したりすることを許してやることを意味する。

症状を招き入れて自由な動きと呼吸を許し、それをそのままの形で自覚しておくのである。

セラピーにとって変換は鍵である。たとえば、圧力を追い払うために動因を発明する必要もなければ、ありもしない動因を感じようとする必要もない。


プレッシャーや義務感、恐れなどから感じる震え、劣等感、落ち込み、不安などの症状に対し、その症状と戦うことをせず、身も心も任せて受け入れ、不快な気持ちに慣れていくことが大切なのである。不快だからといって取り払おうとか、逃げようとかせず、そのままにしておく、そのままに呼吸をして心を自由にふるまい、それを普通に自覚することで症状は薄らぎ、やがて消えていく。しかしながらその症状がしつこい場合には、その不快感の裏にある元の影に変換し、影からのメッセージに気がつくようにしなければならない。

 

(p173)さまざまな影の症状の一般的意味

症状を元の影の形に変換するための辞書

 

圧力               動因

拒否(誰も私を好いてくれない)  相手にしたくない

罪の意識(あなたに自分が悪いような気にさせられる) あなたの要求は受け入れられない

不安               興奮

自意識(みんなが私を見ている)  わたしは思いのほか他人に興味を持っている

不能/不感症           相手を満足させたくない

恐れ(みんなが私を傷つけようとしている) 敵意(私は怒っていて、それを知らずに攻撃している)

悲しみ              怒り

引っ込み思案           そばに来るな

できない             やりたくない

義務感(やらねばならない)    欲求(やりたい)

嫌悪               自伝的ゴシップ

ねたみ(あなたはえらい)     わたしは思ってるよりましな存在

ケン・ウイルバーはこの段階における自我の統一に必要な考え方をセラピストととの会話を通してうまく言い当てている。それは、もしも母親を嫌悪していると言えばセラピストは無意識に母親を愛していると言う。もし人からバカにされるのが嫌だと言えばセラピストは実はそう言われることを楽しんでいると言う。あなたがイエスと言えばノーと言う。上と言えば下。バカバカしく聞こえるがセラピストはあらゆる形の錯綜した理論を使って、あなた自身の対立をあなたに突きつけてくる。

そこには無意識の対立にすぎない影を、反対の想定を意識的にすることで浮かび上がらせ、一つの感情だけではなく無意識下のもう一つの感情に気付かせることで別の側面を自覚させる意味がある。

ある特定の状況に対する肯定的な気持ちと否定的な気持ち、この両方の気持ち、自らの内にある対立を本当に自覚した瞬間、その状況に関連した様々な緊張感が抜け落ちるのだ。

自分と他人との問題(争い)が実際は自分と自分の投影との戦いでることがわかってくる。自分を困らせていたのは他人や外の出来事ではなく、自分がそれを生み出していることにすぎないことがわかってくるのだ。

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陽光を浴びて伸びるあなたの影(シャドー)は、あなたの一部である。どこへ逃れようと太陽があるかぎり、影(シャドー)はあなたについて来る。影はあなたなのだ、影と一つになって歩き続けよう。

他のせいにしない、自分自身の問題として自分の中の原因を突き止めて対処すること。

自分ではどうにもならないこと、なんとかできると思い上がった心を気づかせてくれ場所、それが山である。
思い通りにならない時、思い通りにならないのは当たり前のこと。
勝手に自分なら思い通りになると思い込んでるだけ。

ひとつのことに集中して行い続けること

負けを認める素直な心

諦めないしなやかな心

あとは感謝。当たり前だと思うと感謝できない❗当たり前じゃあないからこそ、すべてが感謝になる。

ありがとう

これができれば心の高度は段階3を登り、次の高度へと登ることができるであろう!

 

次の心の高度(発達の諸段階2)に順応するためには文字通りの高度順応が必要になる。つまり身体的なレベルと心の統一が必要となる。

6合目 登るために必要なエネルギー

6合目 登るために必要なエネルギー

~心的エネルギー~

 

心的エネルギー

物理学におけるエネルギーの概念を精神的な意味で使うと、フロイトの言うところのリビドーという概念が当てはまる。我々人間は重いものを持ち上げたり、何らかの仕事をした時に物理的なエネルギーが消費されたことに気づく。同様に物理的な仕事はせずとも、考え事に集中したり、上司に気を遣ったりすることで物理的な仕事をした時と同じように疲れを感じる。つまり、心理的な仕事が成され、それにより心的エネルギーが消費されたと考えると納得がいく。人間の仕事を見ていく時、そこに使用された心的エネルギーは性的なエネルギーに還元されると、それをフロイトがリビドーと名付けた。

それに対してフロイトの弟子であったユングは、全ての心的エネルギーが性的エネルギーに還元する必要はないと、物理学におけるエネルギーは、熱エネルギー、位置エネルギー潜在的エネルギーと量的には不変であるがその形態を様々に変えるように心的エネルギーをもっと幅広い概念に当てはめた。

心的エネルギーは物理的エネルギーのように変遷し、心の中を流動しているという。

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心的エネルギーの流れ

河合隼雄著『無意識の構造』p49図9心的エネルギーの流れ)

自我は心の内部にある心的エネルギーを適当に消費し、それは睡眠中や休息中に補給される。心的エネルギーが無意識から意識へと向かうときをエネルギーの進行、逆に意識から無意識へ向かうときを退行と呼んでいる。エネルギーの進行と退行は一日のうちに適当に繰り返されている。(略)

 消費される心的エネルギー

怒りや恐れなどの感情のエネルギーは意識の中で膨大なエネルギーを消費する。執着しかり、妬みや悲しみ、妄想、欲望などにどれだけのエネルギーが使われているのだろうか?

これらの囚われが使う心的エネルギーは膨大で、中には囚われにしか心的エネルギーを使えていない人々が大勢いる。囚われが大きすぎて、その囚われから逃れられない、永遠に心のエネルギーが囚われに使われて精神的にも身体的にも疲れているのが現代の人間社会ではないであろうか?

家庭では妻(夫)との会話に気を遣い、妻(夫)の一言に腹を立てては感情的になり、何なら物を投げつけたり、手を挙げたりと関係性を決定的に壊してしまう。

職場では気に入らない同僚とのいざこざや権力争い、上司からの様々なハラスメントに疲れ果てて、うつ病で仕事ができなくなることもザラである。

車を運転すれば、煽られ、それに腹を立て、命を落とすドライバー。

電車の中での会話に文句をつけ、睨まれただけでナイフで相手の腹を刺すような理不尽がこの日本には溢れている。

自治体の市長ともあろうものが自分の思う通りにならないからと部下を怒鳴りつけ、その怒声がレコーダーに録音され、自ら辞職に追い込まれる。いじめは小中学校だけではなく、様々な場面で立場の弱い物への抑圧のはけ口としてエネルギーが消費されている。

 

人という生き物は放っておくと本能の赴くままに争いの螺旋へと取り込まれていく。自分勝手がスタンダードになり、他者への気遣いは弱肉強食の世界では要らぬエネルギーと見做されているのだ。

この状態がエニアグラムの発達の諸段階の4、5、6〜以下の段階である。この心のレベルでは心の高度を上げるためのエネルギーは生じるどころか環境への反応に消費されるエネルギーが大き過ぎて、この事実に気づくことさえ出来ないであろう。

 

心の高度を上げるために必要なエネルギー < 環境への反応に消費されるエネルギー 

 

この状態は、高度を落とす下向きのエネルギーに心が支配されてる。

 

では、

 

心の高度を上げるために必要なエネルギー > 環境への反応に消費されるエネルギー

 

にするためにはどうしたらよいのだろうか?

 

それには、

 

1.心の高度を上げるためのエネルギーを増やす

2.環境への反応に消費されるエネルギーを減らす

 

この2つが必要である。

 

1.心の高度を上げるためのエネルギーを増やす

先に述べたが、心的エネルギーの自我が消費したエネルギーは睡眠や休息によって補給される。つまり、睡眠と休息が非常に重要になる。

なんの事はない、当たり前のことであるが、当たり前であるからこそ、大変重要なのだ!

人が眠くなる時、アデノシンという睡眠物質が脳の中で増える。アデノシンは細胞のエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)が分解される事で増える。人が目覚めている時の活動にATPが使われてATPというエネルギー源が減ってくると眠くなるのだ。そして眠っている間にアデノシンが再利用されてATPが再合成され、活動のためのエネルギー源として備蓄される。ATPを増やす事はエネルギーを増やす事と同義である。


2.環境への反応に消費されるエネルギーを減らす

これまでに述べてきたエニアグラムの自分の基本タイプを知り、分裂の方向にあるタイプの特徴へと心が動きそうになることに気づく。この気づくという事が大変重要である。

そして気づく事にもエネルギーが必要だ。

自らが怒りを感じた時、恐れを感じた時、欲望を感じた時、そのことに気がつく自分が必要なのだ。自我の暴走と同一化することなく、脱同一化によって客観的に気づく。それにより、下へと流れようとする心のエネルギーを堰き止め、環境への反応に消費されるエネルギーを減らす事ができるのだ。

 

また、ストレスは心のエネルギーを大量に消費する。よってストレスの回避、ストレスからの回復は心の高度を上げるためのエネルギーを増やすための直接的な処方だと言える。まさに山登り、山歩きは打ってつけのストレス解消法である!また森林浴の科学的に実証された効果として、ストレス緩和、リラックス効果、血圧の正常化、免疫細胞の活性が高まる、血糖値の正常化などがあげられる。

 

瞑想という心の浄化法

脳はATPを分解してエネルギーを生み出して様々な思考や日々の活動に利用している。そしてアデノシンが増えて疲れが蓄積していく。そこで思考を止めて無駄にエネルギーを消費する事を避け、感情をコントロールすることを訓練すれば、まさに上向きのエネルギーが産生されまるのだ。

 

その他の意識のエネルギー

 

潜在意識のエネルギー

意識の制御下、潜在意識には、意識には現れない様々な感情が閉じ込められている。意識の奥底に潜む自分が認めたくない気持ちや辛い感情、または忘れてしまった楽しい気持ち等も含まれる。はっきりとは意識化出来ない、言語化も出来ないモヤモヤと感じる情念、情動などが、潜在意識として留まっているのだ。これらの潜在意識は凄まじい力を持っており、普段は顕在意識の下で制御されて表に出てくることはないが、睡眠中の夢であったり、何かのトラウマであったり、意識のコントロールが効かない時、もしくは突然に潜在意識の中にある記憶や感情が意識に上がり、私たちの心を揺さぶることがある。しかもかなりの大きな力で。

つまり、この潜在意識のエネルギーをうまく利用出来れば普段使うことのない、言わば眠っている力を引き出すことができるということだ。

この力の一つに直感がある。直感力は女性が強いと言われているが普段、論理的思考が優勢な男性の心よりも感性や情で判断する女性の方が直感が現れやすいのだろう。


無意識のエネルギー

潜在意識のさらに奥には、無意識の領域が有る。この領域は二層に別れ、一つは個人的無意識、もう一つは集合的無意識と名付けられている。

 

個人的無意識

潜在意識よりも早期に植え付けられた記憶等は、より意識の届かない深い場所に存在する。

個人としての全ての記憶が個人的無意識に眠っている。生命の細胞が分化し、母親の羊水から一人の人間として生まれ落ちてから、その後の成長に関わる瞬間瞬間の記憶が貯蔵されているという。

 

集合的無意識

DNAによって受け継がれる情報は生物としての集合的な状態をも含まれると思われる。現存する全ての生命は、たった一個の細胞から進化してきたものだからである。生命の起源、古細菌から原核細胞、多細胞生物に至るまで全ての起源は、たった一つの細胞へと集約される。

 

これらの意識のエネルギーの中でも特に潜在意識には顕在意識と無意識とを紡ぐ重要な役割がある。潜在意識に蓄えられている様々な情念には、肯定的な情念と否定的な情念があり、それらは長い時間を経て無意識の奥底へと追いやられていくが、顕在意識が認知できないレベルで現実に投影され、生活やその人の人生に影響を与えている。中でも否定的な情念が投影されると、その人の人生自体も否定的な方へと導かれ、心の高度が下がる重力として働く。

ではどうすれば良いのだろうか?まずは潜在意識に意識的に肯定的な情報を刷り込む。いわゆる引き寄せの法則と呼ばれている自己暗示や古典的な成功への黄金律を紹介している自己啓発方法は、すべてこの類である。

 

『ザ・マスターキー』より

心の調和は外の世界に反映される。

心の調和とは、自分の思考をコントロールして経験がどのように自分に影響するのかを自分で決めることができる能力である。

心の世界の知恵を自覚することが調和のとれた成長を遂げるためのパワーとなる。

心の世界には全てが既に存在している。外の世界は心の世界の投影である。

心の調和は自然の法則と調和していなくてはならない。

外の世界との関わりは客観的な心が行う。その心の物理的な器官が脳であり、脳脊髄神経系が身体のあらゆる部分とのコミュニケーションを可能にする。脳脊髄神経系を通じてあらゆる感覚及び刺激が身体に送られてくる。この感覚及び刺激が心地よく感じられるならば、思考は建設的になる。結果、私たちに強さや活力が生じ、身体に建設的なパワーが宿ることになる。

また、マザーテレサはこう言っている。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

思考は言葉に現れ、言葉は行動に現れる。

行動は習慣となり、習慣は性格を堅くする。

それゆえ思考を見張り、その動きに気をつけよ。

そしてすべての生命に対して慈しみの心を起こさせよ。

これらのエネルギーを意思のはたらきによって活用する

これまで述べてきた身体的なエネルギーや潜在的なエネルギーをいかに心の高度を上げるために使うのか?それは意思の力という自分で制御が可能な力を利用するのが常套手段となる。潜在意識は普段、顕在意識の支配下にあり、顕在意識の働きが弱くなった時に不意に現れてくる。よくあるのが、眠くてたまらないとき、無意識のうちに何かを行っていたり、禅の修行などは敢えて厳しい肉体的な疲労を与えて、意識がはたらかないように仕向けたり、また、緊急時、命の危険に迫った時なども無意識的に身体が勝手に反応して事なきを得る、ということもある。

どういう状態にしろ、無意識、潜在意識を働かせるには特別な状態に身を置かなければそのエネルギーが表立って現れることは少ないといえる。

なので、今の段階では、潜在意識ではなく、顕在意識をいかに心的エネルギーとして、心の高度を上げるために使うのか?という点に焦点を当てていくことにする。

マズローの欲求五段階説の自己実現欲求が発動していれば、この意思の力は比較的スムーズに心の高度を上げるために利用されるであろう。自己啓発の読書やセミナー、様々な自分への投資を通じてセルフを中心に、自我の統合を進めることが可能になる。

お気に入りの言葉を毎日唱えたり、瞑想に励んだり、前向きな意思は心のエネルギーを豊かにしてくれることであろう。どのような活動をするにせよ、このような状態は自分の心を高揚させるに違いない。

 

集中と持続

一心不乱、心頭滅却、等、気持ちを静めて精神を統一し、心を無の状態にすると言うが、それはどのような状態なのだろうか?思考を経ずに「今ここ」をありのままに受け入れるとき、一体何が起こるのだろうか?

心の高度を上げるための恐らく最終的な目標、到達点のようなものは「悟り」「空」のようなものだと思われるが私自身経験してない上に、一足飛びにそのような心の状態に踏み込むなんて不可能である。

まずは少しずつ、そしてそれを継続すること。最終ゴールを目標に定めたら、中間目標を割り振り、あきらめずに長期的に目標に到達することが必要なのだ。

心のスタミナ、持続力を高めて山頂への合目を頼りに一歩一歩、心の高度を高めて登ることにしよう。



知識は意識の焦点を変え、思考の変化を促し、そこに気づきが生まれる。気づきは思考の選択肢を増やし、思考の選択肢が増えると新しい行動に繋がり、それを意識の力で訓練することで習慣化されまる。これが知識の血肉化である。

気づきによる知識の血肉化

そして潜在意識への働きかけ

これらを実践することはもちろんであるが、もっと簡単に潜在意識に肯定的に働きかける事はできないのだろうか?それにはまず、否定的な情念を潜在意識から追い出すことにしよう。以外に簡単で、えっと思うかもしれないが、「ダイスキな事に没頭する!」。

これが心の洗濯と呼ばれるストレスを減らす方法である。なんだか当たり前のこと過ぎて拍子抜けかもしれないが、私にとっては山登りほど的を得ている方法はない。

まさに心の山登りの実践は貴重な自己実現方法といえるが、潜在意識を活用する方法については、トランスパーソナルシンセシスという自己の統合法で実現したい!

<コーヒーブレイク>

 

ストレスと山歩き

実際の山登り、山歩きが自身のストレスと関係があるのか? 

疲労科学研究所が開発した「疲労ストレス計測システム」VM500を用いて、まずは自分自身で実証データを取りたいと思い、今現在活動中です。

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5合目 登る方向を決める

5合目 登る方向を決める

エニアグラムの統合と分裂の方向~

 

山登りには充分な装備と準備が必要であることは言うまでもないが、準備とは自分の力量を知り、登る山のことを知ることだ。自分に出来ることと出来ないことの適正な判断、その日の体調、登る山はどんな山なのか?天気はどうか?コースは?

しっかりとしたプランニングに基づいて必要な装備を揃えなければならない。

 

心の山を登る時も同様である。今の自分の心の高度を知り、登る山への下準備は欠かせない。それぞれの心の山の特徴、つまりエニアグラムのタイプを知り、タイプごとの方向性を見極める。何の準備もせずに思いつくまま山登りを始めようものなら頂上に着くどころか、様々な脅威に脅かされて遭難することになるのがおちである。

 

エニアグラムでは自我が発動するメカニズムについてタイプ特有の根源的な恐れが存在すると述べている。

T1 では、自分が悪く、墜落し、邪で、欠陥があることを恐れる

T2は、 自分が愛されるにふさわしくないことを恐れる

T3は、 自分に価値がないこと、本来価値をもっていないことを恐れる

T4は、アイデンティティや個人としての存在意義をもっていないことを恐れる

T5は、 役に立たず、無力で、無能であることを恐れる

T6 は、支えや導きを持たないことを恐れる

T7 は、必要なものを奪われ、痛みから逃れられないことを恐れる

T8は、 他者に傷つけられ、コントロールされることを恐れる

T9 は、繋がりの喪失、分裂を恐れる

この根源的な恐れから逃れるために、根源的な欲求を作り出し、この欲求を満たすことが出来れば恐れから解放されるという妄想を抱く。

T1 高潔でありたい(批判的完璧主義に陥る)

T2 愛されたい(必要とされたいという必要に陥る)

T3 価値のある存在でありたい(成功の追求に陥る)

T4 自分自身でありたい(自己放縦に陥る)

T5 有能でありたい(無用な専門家に陥る)

T6 安全でありたい(信念に対する執着に陥る)

T7 幸福でありたい(必死の現実逃避に陥る)

T8 自分自身を守りたい(たえざる闘いに陥る)

T9 平和でありたい(頑固な怠惰に陥る)

ここでエニアグラムによる各性格タイプが抱えている心のジレンマを見てみよう。この図は、エリヤフ・ゴールドラット博士が唱えた制約理論で使われている対立解消図(通称クラウド)というもので、ゴールドラット博士の娘、エフラットさんのセミナーで使われていたものを私がメモし、そのメモをもとに作成したものである。

(各対立解消図とジレンマの説明)

各タイプが抱えるジレンマ

               

<タイプ1のジレンマ>

タイプ1は「高潔でありたい」という根元欲求に対し、「完璧な世界を目指して頑張る」そのためには「正しい事だけをする」

また、「高潔でありたい」という根元欲求に対し、「環境も自分もあるがままに受け入れる」そのためには「間違いを許す」

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タイプ1のジレンマ

ここで「正しい事だけをする」と「間違いを許す」との間のジレンマに陥る。

 

               

<タイプ2のジレンマ>

タイプ2は「愛されたい」という根元欲求に対し、「他人から親しみを感じて認められる」そのために「自分よりも他人のニーズを優先する」

また、「愛されたい」という根元欲求に対し、「自分が好きである」そのためには「他人より自分のニーズを優先する」

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タイプ2のジレンマ

ここで「自分より他人のニーズを優先する」と「他人より自分のニーズを優先する」との間のジレンマに陥る。

 

<タイプ3のジレンマ>

タイプ3は「価値ある存在でありたい」という根元欲求に対し、「自分を主張し、断言する」そのためには「自分のイメージを貫く」

また、「価値ある存在でありたい」という根元欲求に対し、「成功を求める」そのためには「意義ある成果に集中する」

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タイプ3のジレンマ

ここで「自分のイメージを貫く」と「意義ある成果に集中する」との間のジレンマに陥る。



<タイプ4のジレンマ>

タイプ4は「自分自身でありたい」という根元欲求に対し、「自分に忠実であること」そのためには「自分の内部世界に向かう」

また、自分自身でありたい」という根元欲求に対し、「自分自身を表現する」そのためには「自分の外部世界に向かう」

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タイプ4のジレンマ

ここで「自分の内部世界に向かう」と「自分の外部世界に向かう」との間のジレンマに陥る。

 

<タイプ5のジレンマ>

タイプ5は「有能でありたい」という根元欲求に対し、「何かに熟達する」そのためには「不確実がなくなるまで探究する」

また「有能でありたい」という根元欲求に対し、「自分が達成感を感じる」そのためには「不確実な状態でも行動する」

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タイプ5のジレンマ

ここで「不確実がなくなるまで探究する」と「不確実な状態でも行動する」との間のジレンマに陥る。

 

<タイプ6のジレンマ>

タイプ6は「安全でありたい」という根元欲求に対し、「自分を守る」そのためには「すべてを疑いvs他人に頼る」

また、「安全でありたい」という根元欲求に対し、「安心感を得る」そのためには「自分を信じる」

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タイプ6のジレンマ

ここで「すべてを疑いvs他人に頼る」と「自分を信じる」との間のジレンマに陥る。しかも「すべてを疑う」と「他人に頼る」こともジレンマである。

 

<タイプ7のジレンマ>

タイプ7は「幸せでありたい」という根元欲求に対し、「直近(今)の満足を求める」そのためには「様々な興味に転換する」

また、「幸せでありたい」という根元欲求に対し、「自分のヴィジョンをかなえて大きな成果を得る」そのためには「しっかり集中する」

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タイプ7のジレンマ

ここで「様々な興味に転換する」と「しっかり集中する」との間のジレンマに陥る。

 

<タイプ8のジレンマ>

タイプ8は「自分自身を守りたい」という根元欲求に対し、「自分の方法でやる」そのためには「完全に支配している」

また、「自分自身を守りたい」という根元欲求に対し、「自分のヴィジョンを達成するのに他人の協力をもらう」そのためには「支配しない」

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タイプ8のジレンマ

ここで「完全に支配する」と「支配しない」との間のジレンマに陥る。

 

<タイプ9のジレンマ>

タイプ9は「平和でありたい」という根元欲求に対し、「平和と調和が必要」そのためには「対立を避け、他人を喜ばす」

また、「平和でありたい」という根元欲求に対し、「自分のエネルギーを節約し、他人の協力と理解を求める」そのためには「対立と向き合い、態度を明確にする」

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タイプ9のジレンマ

ここで「対立を避け、他人を喜ばす」と「対立と向き合い、態度を明確にする」との間のジレンマに陥る。



ジレンマを解消するためにはどうすればよいのだろうか?

それは対立する一方を消してやることだ。

そしてどちらを消すのか?によって根元欲求の満たされ方が変わってくる。

 

タイプ1の場合、「正しい事だけをする」を選択した場合、「高潔でありたい」という根元欲求はそのままの形では満たされず、批判的完璧主義に陥ってしまうことが予想される。なのでタイプ1はもう一方の選択、「間違いを許す」ことによってのみ、「環境も自分もあるがままに受け入れる」ことで「高潔でありたい」という根元欲求を満たすことが出来るのである。

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タイプ1のジレンマを解消する

この選択の切り替えは意識的に行う必要がある。通常の段階ではこのことには気づかないが、レベル4の心の高度ならば選択のスイッチを切り替えることが可能である。

 

同様にタイプ2の場合は「他人より自分のニーズを優先する」

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タイプ2のジレンマを解消する

タイプ3は「意義ある成果に集中する」

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タイプ3のジレンマを解消する

タイプ4は「自分の外部世界に向かう」

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タイプ4のジレンマを解消する

タイプ5は「不確実な状態でも行動する」

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タイプ5のジレンマを解消する

タイプ6は「自分を信じる」

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タイプ6のジレンマを解消する

タイプ7は「しっかり集中する」

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タイプ7のジレンマを解消する

タイプ8は「支配しない」

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タイプ8のジレンマを解消する

タイプ9は「対立と向き合い、態度を明確にする」

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タイプ9のジレンマを解消する

の行動を選択しなければならないのだ。

 

そうでないと、タイプ2は「愛されたい」という根元欲求は、「必要とされたいというニーズ」に陥り、タイプ3の「価値ある存在でありたい」という根元欲求は、「成功の追求」へと陥ることになる。

タイプ4は「自己放縦」に陥り、タイプ5は「無用な専門家」に陥り、タイプ6は「信じている考えに対する執着」に陥るのだ。

タイプ7は「必至の現実逃避」に陥り、タイプ8は「たえざる戦い」に陥り、タイプ9は「頑固な怠慢」に陥るということになる。



これはエニアグラムにおける各性格タイプにとっての成長、心の高度を上げるための方向である<統合>と心の遭難へと向かう<分裂>の方向についての説明とリンクしている。

 

 ドン・リチャード・リソ著『性格タイプの分析』(p36~39抜粋)

私は、人は一つの基本タイプから別の基本タイプに変わることはない、という信念をずっともっている。私たちは子供の頃からある特定の性格タイプの実例ー大きなグループの中の唯一無二の個人ーとして育ってきており、したがって必然的に、今後の人生もそのタイプのままに生き続ける。私たちはその出発点、すなわち自分の基本タイプから成長し、あるいは堕落していく。その基本タイプとは、遺伝の結果と幼児期の体験、中でも両親との間でもった関係の結果、私たちがどのような人間になったかということを反映したものである。私たちがどのタイプになったかということは、深い部分での現在の自分自身であり、それが全く別のタイプに変わってしまうことはない。

 しかし、現実問題として人は変わるものであるし、エニアグラムはさまざまな種類の心の持ち方の変化を説明する。私たちは発達して成熟し、自分がそうなるべき人物になり、もしくはそのきわめて重要な課題に失敗する。私たちが成長したり堕落したりするとき、その変化の方向はエニアグラムに示された線の方向によって予測できる。誰もが、自分の基本タイプからエニアグラムの線によって示される特定の<統合と分裂の方向>に「動く」。

 <分裂の方向>(自分の基本タイプのさらなる堕落や衰弱を示すもの)はエニアグラム上で、1→4→2→8→5→7→1、および9→6→3→9という番号の順で示されます。

<統合の方向>(自分の基本タイプのさらなる統合と人格的成長を記すもの)はこれら二つの続き番号の逆、すなわち1→7→5→8→2→4→1と9→3→6→9で示されます。

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この説明に示されている<分裂の方向>とは、人がより低次の欠乏欲求を満たそうとして自我の欲動の欲するままに生きることで発動する性格の特徴を表している。すなわちタイプ1は4へと堕落し、タイプ2は8へと堕落する。同じように各基本タイプからの矢印の方向のタイプへと堕落するのだ。これはどういう事かというと、発達の諸段階のレベル4以下で述べた特徴、例えば、タイプ1では、常に個人的義務を感じることから逃れるためにタイプ4の特徴、いつも想像の世界に浸っていること→レベル5のタイプ4の特徴、自己陶酔が原因で引きこもりになる、というように不安やストレスによってどのような特徴が現れるのかを予測する。

また、タイプ3は9へと堕落し、他者との競争に敗れて不安が高じると反動でタイプ9の段階4から5の行動特性である他人の言いなりになったり、離脱が原因で服従へと向かうようになる。

 

これと同じ原理で<統合の方向>とは、人格的成長へ向かっているときの特性を示している。これは予測ではなく、自覚を持った気づき、意識的な心構え、努力すべき目標と言える。つまり、段階4から段階3へと心の高度を上げるために必要なことを示しているのである。例えばタイプ7は、タイプ5の特性である集中力を高めることによって段階4の取得欲が高じるままにしておくことを抑制して、知識と専門的能力を高めることで、実用性と豊かさを手に入れることができるようになる。

また、タイプ6はタイプ9の特性である心の安定と育成に注意することで、他人に依存することから現実参加と他者との協力を築くことに繋がる。

 

各タイプが低次の欠乏欲求を満たし、高次の欲求に基づいて人格的成長を目指す時、<統合方向>の矢印は、エネルギーを費やすべき目標である行動指針となるのだ。

 

エネルギーには量と方向が必要だが、この章では方向について述べた。次の章ではエネルギーの量について考える。

 

<コーヒーブレイク>~統合と分裂の方向について~


まずは、分裂から説明したいと思います。
人は自分にとって嫌なこと、認めたくないことを他のせいにします。都合の悪いことを自分のせいにしたくないのです。そうやって自分の中の嫌な部分を自分の外に分離します。その分離した自分の影を悪者に仕立て(投影)、その悪者のせいにすることで自分を納得させています。何か都合の悪いことが起こるたびに、これが繰り返されます。そして自分というものをどんどん小さく分割していくのです。こうして分割、断片化された自分はさらに矮小化し、器の小さな度量のないちっぽけな存在になっていくのです。
反対に統合とは、自分から切り離した影を自分に戻すことです。気に入らない他者は自分が投影している自分の嫌な部分です。自分の嫌な部分、嫌いな所も自分の一部だと認め、それを自分のものにしていくこと、これが統合です。
まずは切り離した自分の嫌な部分(影=シャドー)を統合し、自分がつけているペルソナ(仮面)を統合し、自我を統合すること。そして私(自我)と私の身体という、頭の中のイメージを解体し、有機体としての人間として一つに統合します。さらには有機体とそれ以外の環境との統合を果たすことで超越的自己、トランスパーソナルなセルフの段階へと登るのです。このトランスパーソナルセルフへの一連の動きが、統合の方向ということです。

1割る7は、0.142857142857142857......

循環小数がこの数列で延々と続きます。この数列はまさにエニアグラムの分裂の方向を示しています。この事に何か意味を求めるのか?単なる偶然なのか?

機会があれば考察したいと思います。

4合目 自分の心の高度を知る

4合目 自分の心の高度を知る

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http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/static/page03.htm


心の高度とは、上の図に示したように各性格タイプの心理的なダイナミズムを垂直方向に9つの段階に便宜上分けたものである。レベル1~9の段階ごとに『性格タイプの分析』の著者ドン・リチャード・リソが発見し、名付けたものだ。

(発達の諸段階が意味するもの)

<健全な状態が1~3>

レベル1は解放の段階

レベル2は心理的受容の段階

レベル3は社会的価値の段階

<通常の状態として4~6>

レベル4は不均衡の段階

レベル5は対人関係支配の段階

レベル6は過補償の段階

<不健全な状態として7~9>

レベル7は侵害の段階

レベル8は妄想と衝動脅迫の段階

レベル9は病理的崩壊の段階

人は通常、発達の諸段階の5のレベルで生活している。5を重心として6へ下がったり、4へ上がったりということを繰り返している。ある意味、心の均衡を何とか保っているのが4~6の段階なのだ。この通常の段階よりも上に登るか?下に降りるか?つまり健全な段階になるのか?不健全な段階になるのか?どちらにしても閾値を超えるエネルギーの注入が必要だという事である。そして、上に登るためには、下に降りるエネルギーよりもはるかに多くの意識的なエネルギーが必要となる。

このレベルから下がっていく不健全な段階(7〜9)は、神経症が進行している状態で、タイプごとに独特の神経症の症状に悩まされているという状況である。神経症の症状や、その処方については、精神医学専門書等に詳しく記されていることであるし、この本の主題は心の高度を上げることが目的なので詳しく触れるこのはないが、ストレスや病によって私たちの心は不健全な状態へと簡単に落ち込んでしまう。

 

私たちの普段の生活場所、それは家庭であったり会社であったり、その場所は山でも海でもない、ある一定の海抜高度を保っている場所、ここがレベル5の心がある地点だと思って欲しい。レベル4は、そこから山へと移動する。登山口のある場所、そこが心の山の入り口である。

心の登山口、各タイプ毎にそれぞれの心の山を登る訳だが、ここからは自分の力だけで登らなくてはならない。エニアグラムという心の地図を頼りに、タイプごとの道標に従いながら、頂上を目指して歩くことになる。高度がレベル3に上がれば景色は随分と変わる。視界は開け、より遠くまで見通すことができる。他の山もよく見え、高い山も低い山も、その姿をハッキリ見ることができる。

高度のレベル2では、心と体をその高さに馴らす必要がある。また体力、全身の筋力、特に心の筋肉もしなやかに鍛えなければならない。

 

反対に、レベル6の高度とは、身体が欲するものを求めるがまま海岸へ降りてきて、今まさに舵の無い船に乗り込もうとしている状態である。船に乗って海へ出てしまったら舵の無いあなたの船は水面を彷徨ってしまうだろう。舵のない船にしがみついて海を漂流している状態、これがレベル7の不健全な段階と言える。嵐がくれば波に漂う漂流船は、濁流の渦に巻き込まれて海底深く沈んで行くことだろう。

 

ダンテの神曲

 

紀元1300年、イタリアの詩人ダンテが『神曲』という叙事詩で歌い上げた地獄と煉獄の描写は、心の高度の在り方を示唆したものとして非常に興味深く、その物語の構造設定自体にも共通点が多々あると思われる。

 

ダンテの描いた神曲での地獄は漏斗状の階層として描かれている。一番底に大魔王のルシファー埋まっており、ダンテは導師ウェルギリウスに導かれ、地獄の底に向かって様々なおぞましい光景を目の当たりにしながら降りていく。そこには様々な地獄の形態があり、そこで苦しみを受ける歴史上の人物たちの様子や彼らとの会話によってこの地獄めぐりは進行する。

 

そしてこの地獄の漏斗状の形状は、まさに真っ暗闇の深海へと渦巻く神経症への重力の構造を表現しているように思う

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ダンテ地獄

地獄を目の当たりにしたダンテは、次の旅で煉獄という山を登ることになる。

紀元1300年、ダンテの神曲に描かれた煉獄の山。

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ダンテ煉獄

煉獄とは、生前に穢れた魂を浄化するための世界、そこは7つの原罪を清めるために登攀をしなければならない険しい山なのだ。案内するのは、地獄界を先導した先の詩人のウェルギリウス。地獄にしろ煉獄にせよ、盲目的に彷徨っていてはそこから脱出することは不可能である。ダンテは案内役が必要であると記したのであり。そしてこの煉獄の山を登る案内役と同じ役目を果たすのが、エニアグラムという心の登山地図ではないだろうか?

 

エニアグラムとエニアボール

 

エニアボールとは、2次元図形であるエニアグラムを球体に立体化したモデルで私のオリジナルアイデアだが、リチャード・リソらの発達の諸段階の概念を構造化している。

段階5が赤道面を表しているのは、この心の段階にいる人々の数が一番多く、タイプ毎の特徴も違いが明確になっている。そして心のレベルが上がる、もしくはレベルが下がると数が減るという概念も表しており、実際、健全な段階の上の方に行けば行くほど人としての良い部分が集約されて各タイプの特徴も共有されていく。逆に不健全なレベルへと降下していく場合は、各タイプは最終的には廃人、死という共通の結果に陥ることになる。

健全な段階へと登っていく過程は、ダンテが言うように煉獄の登山に例えられる。

「この山の恰好は下の登り口に近ければ近いほど登りづらく、上がれば上がるほど苦が減ずる。だからしまいにはまことに快適で登りがいとも軽妙になり、いわば舟で流れを下るようになる。そうなればこの径の終わりに着いたことになる、そこで疲れを休めるよう心づもりをするがいい。私がいまいったことは事実だ。これ以上はもう答えぬ」

 実際、レベル3から2、そして1へと登る道程は統合の方向へと各タイプを回る動きとなるのだが、その距離はレベルが上がるに従い短くなる。まさにダンテがウェルギリウスから教えられた通りである。

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エニアボールとトランスパーソナルシンセシス

ダンテと同じイタリア出身の精神科医ロベルト・アサジオリによって作られたサイコシンセシスという心の統合理論。アサジオリはパーソナルサイコシンセシスのみならず、その上位統合にあたるトランスパーソナルサイコシンシセスを唱えている。そしてそれこそがまさにエニアグラムの統合の方向にあるタイプの肯定的な資質を自らのものにしていくという過程を含んでいる。

 

その過程において、各タイプの原罪と向き合い、贖罪し、新たなステージへと登っていくことがセルフを統合していくことになる。

この統合という工程にはセルフ(自己)の中心が重要だが、これは円周上の1~9の真ん中、つまりここからでないと高くは上がれないということだ。逆に言えば、高く登るためには真ん中でないとだめなのだ。

この真ん中から高く上った先に、トランスパーソナルサイコシンセシスセルフが位置しているというわけである。

自分を理解し、互いを理解して他人のための心のスペースを空けておく。あまりも当たり前の言葉である「思い遣り」の精神。

少しでも多くの人々の心が健全な状態(レベル3~1)になること、そうすればこの世の中の軋轢は減り、もっと暮らしやすい世界になると信じている。

 

さて、あなたの心の高度は?

 

あなたがまだ生存への不安、安全への不安、社会の中で様々な恐怖に怯えているとするならば、段階5以下のレベルで生活しているといえるだろう。だとすれば、まずはその状態から物理的に逃れなくてはならない。環境を変える、対人関係を変える、自分を変えるなどドラスティックな変容が必要だ。

 

///そんな事は無理だ!///

 

しかし、変えなくては!と今の自分の心の状態に気づき、自発的に思考することが最初のスタート地点である。

そこから段階4に上がるための努力が始まるのだ!

先にも述べたように人は通常、段階5のレベルで様々なタイプの囚われに囲まれている。実際そのことにさえ気が付いていないのが普通である。9つのタイプの囚われから生じる軋轢や葛藤の中で自らも不安と怖れを抱き、自我の囚われの中へと沈んで行く。段階5での自我が採択する戦略は間違いなくすべて失敗に終わるのだ。

マズローの欠乏欲求が感じられる状態は、高度としては段階5から下のレベルにいると思ってよいだろう。欠乏欲求の中でも承認欲求の自分から認められたいという欲求が発動している状態であれば恐らく段階4の心の状態だと言える。

 

このブログを読み、何らかのアクションをしようと思っているのなら、今まさに段階4の心の高度だと言えるだろう。

段階4のレベルが、そこから上にも登れますが、下にも降りることのできる心の高度分岐地点なのだ。

下に降りる、心の高度を下げるということは、自我が発動し、自らの欲動のまま行動してしまうことである。

自我が自動的に発動する戦略を止めるには、あなたのタイプの囚われを意識し、あなたのタイプの統合の方向にあるタイプの良いところを意識的に取り入れるようにしなければならない。例えばタイプ7の場合、統合の方向にあるタイプは5になるので常に新しい刺激に反応してしまうタイプ7の欲動をタイプ5の特質である集中することへと意識的に行うのだ。自身を客観的に捉え、散漫になる気配を感じたならば集中へのスイッチを切り替えることを意識するのだ。これを出来る限り常に行うとそういう習慣が出来るようになる。これはいわば訓練と言うべきものだが確かに訓練が必要なのである。

ダンテが神曲で示した煉獄の山を登るように、、、




<コーヒーブレイク エニアグラムのウイング>

 

エニアグラムにはもう一つ重要な概念があります。それはウイングという概念で、自分の性格を支配する基本タイプと相補的に作用するもう一つのタイプが存在するということです。ただしウイングタイプは全く別なものではなく、基本タイプの両隣にある2つのタイプのうちの一つです。タイプ1ならウイングはタイプ9、もしくはタイプ2になります。

ウイングタイプの割合は、基本タイプが51%から99%に対し、1%から49%であると考えることができます。これはほとんど基本タイプだけで性格を説明できる場合もあれば、ほぼ半分近くウイングタイプの影響を受ける性格もあるということです。これだけの説明でも人間の性格の多様性がよくわかると思います。ここに発達の段階の概念が加われば、一人として全く同じ性格の人間は存在しないと言えるのではないでしょうか?

ドン・リチャード・リソとラス・ハドソンの共著『性格のタイプ 増補改訂版』では、ウイングの影響を受けた各タイプの詳細説明が記されていてその描写力には驚かされます。




3合目 登る山を決める(自分の性格タイプを知る)

3合目 登る山を決める(自分の性格タイプを知る)

 

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エニアグラム基本タイプ診断~

それでは簡単なテストで、あなたのタイプを理解する練習をしよう。

以下の設問に当てはまると思う自分を選んでください。

その組み合わせであなたの基本タイプを測定することにしましょう!

 

TOC for Personal       Growth TOCICO - Aug2013      Dr.Efrat Goldratt-Ashlag より引用)

 

CHOOSE1

まず、ABCの中から自分に最も合うものを選んでください。

(例えば、C)

 

A 自信満々で、命令に従わせる威厳を持ち、自分の意見がはっきりしている分わがままで、意見を曲げません

このタイプにとって大事なのは:主導権を持っている

 

B 優等生で、成功に対してとても意欲的、周りに適応でき、その分周りからどう思われているか気にする傾向

このタイプにとって大事なのは:勝つこと、成功すること

 

C 自発的で自分からいろいろな事をしようとし、楽観的で、多才で、衝動的なゆえ、集中が散漫になることも

このタイプにとって大事なのは:人生をエンジョイする

 

次のDEFの中からも自分に最も合うものを選びます。

(例えば、E)

 

D 信念と目的を常に持ち、自分や周りを良くしていこうと努力をする完璧主義者

このタイプにとって大事なのは:正しいことをする

 

E チームプレーヤー、頼りにされて好感を持たれるけれど、その反面心配性で疑い深い性質も

このタイプにとって大事なのは:確実性

 

F 困っている人には必ず手を貸そうとします。親切で、温かい側面がありますが、一方では人に好かれたい強い思いから束縛しがちな面も

このタイプにとって大事なのは:他に与えること

 

最後に、GHIの中から自分に最も合うものを選びます。

(例えば、H)

 

G 感情的で、打ち込むタイプ、クリエイティブで、想像力に富んでいる一方で、ふさぎ込みがちな傾向も

このタイプにとって大事なのは:意義

 

H 理性的で、視野があり、徹底した学習者。また、調査したことを周りに秘密にする傾向があります

このタイプにとって大事なのは:パーソナルな空間

 

I 人を受け入れ、愛想がよく、他人の意見に賛同するのが早い傾向にあります

このタイプにとって大事なのは:調和、平穏無事

 

選んだ3つの中から自分に最も合っているものをチョイスしてください。

(C>H、E、ならばC)



NEXT

CHOOSE2

先と同じことを(J,K,L)(M,N,O)(P,Q,R)でも行います。

 

J 魅力的で、まじめで頼りになります。職場でも周りを助け、同僚の仕事がはかどるよう手助けをして仲間を増やします。今いる環境を見て、周りが「なぜ行動をしているのか」や「その行動にはどんなメリットがあるのか」などを感じ取り、問題になりそうなことを前もって気づくことができます。

重要なモチベータ―:安全であること

 

K 内省的で表情が豊か。顧客に合った個別のサービスをしたり、際立った製品を開発し、洗練さとスタイルのセンスは抜群です。創造的でないと感じたり、個性的な印象を与えないと感じる仕事は嫌い。批判に過敏で、不機嫌になったりする

重要なモチベータ―:特別であること

 

L 自信満々で、命令に従わせる威厳がある。何を成し遂げたいかの明確なビジョンと、それを実現させる意志の強さがある。困難な決定もでき、深刻な問題があっても、ただ単に取り組むべき問題、乗り越えるべき障害だと考えます。状況を管理することを望み、権限を委譲したり、リーダーシップを分担するのは難しいと感じる傾向があります

重要なモチベータ―:権力

 

M 意欲的で集中力がある。顧客や上司の期待に応じて仕事を効率よくやるにはどうすればいいかしっかり理解している。多くの場合、魅力的でエネルギーがあり、彼らのチームや会社の同僚にどう見られているかを気にするタイプ。周りから認められ、成功と名声を得ることに憧れがある

重要なモチベータ―:

 

N 洞察力に優れ、エキセントリックなところがある。特に専門分野や技術的分野において学び続けることを好み、詳細に理解するのが好き。仕事に面では分析力に優れており、新しいことを発見するのに時間を忘れて夢中になる為、人間関係に力を注ぐことはあまりないが、最後には驚くほどの新しいアイデアを出し、仕事に深い奥行と高品質な成果をもたらす

重要なモチベータ―:独立している

 

O 高い理想を持ち、それを維持することに全力を注ぎます。細部まで気を配り、物事をいかに改善できるか、を常に心がけています。周りや自分がどう改善すべきか、どうやったらもっと効率的になれるのか、正しくやることに努力しています

重要なモチベータ―:約束をする

 

P おおらかで世話好き。プラスを強調してグループメンバーの中に調和を生み出すので、このタイプの人といると対立や緊張がやわらぎます。面倒見がよく、誰とでも一緒に働け、他の人が輝くように謙虚に支援していくタイプです。職場では対立をできる限り避け、調和と安定を生み出そうと試みることが多いです

重要なモチベータ―:平穏であること

 

Q 楽観的で衝動的。常に刺激を求め、変化することを生きがいとします。たいていの場合雄弁でアイデアを周りの人から支援してもらえます。流行りに敏感で、継続して新しい可能性を探し求めます。自然にマルチタスクをしてしまい、負荷を負い過ぎてしまい、最後までやりきらなかったりすることもしばしば

重要なモチベータ―:自分の自由

 

R 社交的で、他人のニーズに敏感で、困っている人には必ず手を貸そうをします。人付き合いが上手。しかし、お願いに対してノーと言えなかったり、他の人を手助けすることでストレスに苦しんでしまうことも

重要なモチベータ―:他の人に親しみを感じること





さてご自身に当てはまるタイプは?

CHOOSE1で選んだ記号(例えばC)とCHOOSE2で選んだ記号(例えばQ)の組み合わせで、そのアルファベットが示すタイプ(CQならばタイプ7)があなたのタイプだと思われます。

 

DO

タイプ1

自分にきびしく 他人にもきびしい

完璧主義者 改革タイプ (The Perfectionist)

 

<改革する人>

倫理的基準や理想が高く、間違うことを怖れています。常に正しくありたいという欲動が働きます。

健全な状態では、思慮分別があり、理想を現実化するために粉骨砕身努力します。誠実で公平感、バランス感覚が優れています。

通常の状態では、その高い理想から現状に満足できず、物事に対して改善の余地があると考えます。

自らの囚われが強くなると、批判的にしか物事が見れなくなり、完璧主義に走ります。自己批判が強くなり、自分の理想を求めて自らを叱咤激励し、ハードワークすることになります。結果、リラックスができず、不安定に陥ります。

不健全な状態では、、他者批判や至らぬ点が気になり、それを指摘ぜずにはおれなくなります。自己正当化と他者への非難がひどくなり、自分だけが被害者だと思えてくる。

硬直的で怒りや正義感がエネルギーとなります。



FR

タイプ2

思いやりがあり、たまに自分を犠牲にしすぎる

人を助ける 必要に応えるタイプ (The Helper)

 

<助ける人>

人から愛されたいと願い、そのために他者志向に走ります。愛されなくなることを怖れ、常に他人への共感的欲動が働きます。

人とのつながりを大切にするので思いやりがあり、面倒をよくみます。

健全な状態では、相手からの見返りを求めることなく無条件で与え、尽くします。

愛されないのでは?という怖れや囚われが強くなると、自分勝手な方法で相手を援助しようとします。おせっかいになり、自己犠牲を払ってでも恩を売り、所有欲が強くなります。

不健全な状態になると、恩に報いない、評価されないと感じ、相手を敵視、非難します。自分のそばから離れられないように強迫的に愛を求めてきます。強いストレスは心理的な問題としてよりも身体的症状として現れることが多く、最終的には心身ともに消耗し、他人に面倒を見てもらわざるを得なくなります。



BM

タイプ3

周囲からの高い評価を求める

実行者 達成するタイプ (The Achiever)

 

<達成する人>

成功志向でアメリカンドリームを体現するタイプ。実利的でイメージを大切にします。自分に価値がないと思われることを怖れ、他者からの賞賛を得たいという欲動が働きます。そのため目標実現に向けてハードに働き、概ね実績を残すので評価は高くなります。

健全な状態では、自分の価値を信じ、ベストの自分になりきり、目標を明確に設定してそれを実現する力があります。他者からのモチベーションを引き出す能力もあるので自信に溢れ、プレゼンテーションも上手です。

しかし囚われが強い状態では、競争心、上昇志向、ステータス志向が強まり、下位のものに対して横柄になったり、目標達成のためにズルをすることもある。成功した自己イメージにこだわりすぎて素直な気持ちや本当に求めているものが分からなくなります。

不健全な状態では、実際の自分の実力以上に自分を良く見せたいと思い、うそをつき、他者を陥れ、攻撃的になることがあります。

 

GK

タイプ4

周りと同じことは好まない

個性的 芸術家タイプ (The Designer)



<個性を求める人>

感受性豊かで繊細で直観的、自分の存在価値を疑い、生きている意味がないことを怖れています。自分の生きている価値を見つけたいという欲動から人とは違う自分、他人にはない何かを見出したいと願っています。

健全な状態では、人生の深さ、美しさに触れ、それを創造的に表現できます。個人的な語らいの中に普遍的な価値を授け、隔世者、覚醒者の感があります。

囚われが強くなると、人生に対して斜に構えるようになり、自意識過剰になります。自分が特別であり、理解されにくいと思う反面、自分と同じ価値を共有できて自分を救ってくれる理想的な相手に憧れますが、近づきすぎるとアラが見えるので遠ざけたり、また憧れて引き寄せたりを繰り返します。

不健全な状態に陥ると、自己憐憫や他人への妬み、自己放縦に走ったり、鬱になったり、自ら死を招くこともあります。

 

HN

タイプ5

知識を蓄え、分析する

学習者 観察するタイプ (The Investigator)

 

<調べる人>

思考を集中的に使うことができる観察者。無力で無能であることを怖れ、有能性を発揮するための知識や技能を習得したいという欲動が生じています。

健全な状態では、先験的なヴィジョンを持っているので洞察力が鋭くなります。全体を見通す力があり、好奇心に溢れ、斬新な発想ができます。

通常の状態では、典型的な思考型で理性的ですが感情表現や人間関係は得意な方ではありません。まわりを理解し、解明することで自信が圧倒されないように気を付けています。興味を持ったことに関しては集中的に知識を習得し、没頭することができます。

不健全な状態へと向かうと、知識や技能を身につけてからでないと世の中と関わることができないと感じ、考えて納得してからでないと行動できなくなることもあります。他人への依存がないかわりに他人からも依存されたくない、自分の知性を鼻にかけ、挑発的になり、不健全になると孤立し、エキセントリックなニヒリストになります。

 

EJ

タイプ6

まじめで誠実な

忠実 疑い深いタイプ (The Loyalist)

 

<信頼を求める人>

安全志向で信頼できる人物や考え方を求めています。自立できないかも?という怖れを抱き、安心、支援を求める欲動に沿って動きますが、本当に信頼できるか、という疑念と忠実であらねば、という気持ちの間を揺れ動きます。

過去の前例やルールに従おうとし、周りからの同意とサポートを求めます。周囲からの期待に応えようとし、優柔不断になることもあります。雑念に悩まされやすく、頭の中を空っぽにすることは苦手です。

健全な状態では、自らの内側に勇気と信頼を見出し、愛情深く、仲間のために忠実で献身的にかかわることのできる努力を惜しみません。物事を用意周到に準備する能力もあります。

囚われが大きくなると自分が安心できる状況なのかどうかを確かめるために権威者に対して反抗的になったりします。さらに不安が大きくなると敵をつくり出して攻撃することでその不安から逃れようとしたり、受動攻撃という特徴的な態度をとったりします。

 

CQ

タイプ7

楽観的で衝動的な

熱中するタイプ (The Enthusiast)

 

<熱中する人>

たのしいこと、刺激的なことに熱中し、自由を好みます。必要なものを奪われ、痛みを感じることを怖れています。予測し、反応し、貪欲に求める欲動に動かされます。

健全な状態では、感謝と喜びの感情で満たされ、肯定的で創造的なヴィジョンを考え出します。周囲を楽しませることで自分も楽しくなります。楽観的で実行能力もありますが、通常の段階では、様々な計画を考えているだけで楽しくなってしまい、思考が次から次へと切り替わり、楽しい未来を想像するだけで今に集中することが出来なくなります。多才な反面、一つのことを腰を落ち着けて継続することが難しいタイプです。

「今、ここ」にあるものよりも、もっといいものがあるのでは?と考え、計画したのはいいけれど中々実行できなくて苦しみます。

不健全な状態になると、極めて衝動的で無責任となり、どんなことをしてでも苦痛から逃げ出そうとします。快楽や嗜癖、物質主義に走ったり、躁鬱的になります。金銭的破綻や病気に陥ることもあります。



AL

タイプ8

他人に頼らず自己主張が強い

挑戦する人 ボスタイプ (The Boss)

 

<挑戦する人>

腹が据わっていて遠慮がなく、物事をはっきり言います。他者から支配されることを恐れ、自らが環境を支配し、周囲を仕切ることを好みます。現実的で自分の道を進みます。

健全な状態では、心が広く、面倒見もよく、立場の弱いものを守ります。自信と力、リーダーになる資質を備えていて決断力があります。エネルギーに満ち溢れていて行動的でリスクや挑戦を恐れません。

囚われが強くなると、自慢や強がりを言い、世間のルールや常識に逆らって力づくでも自分のやりたいようにします。自らの弱さは決して認めず、相手の欠点を攻撃し、支配し、操作しようとします。

不健全な状態では、お金や権力、名声に執着し、力を誇示し、闘争的、破壊的になります。



IP

タイプ9

葛藤を嫌い、調和を求める

平和をもたらす人 調和タイプ (The Peacemaker)



<平和を好む人>

穏やかなので人に安心感を与え、周囲を和ませます。人から見捨てられることを恐れており、平和を求めます。快適さ、一体感を好みます。

健全な状態では、平和で安定した心を保ち、周りに緊張や葛藤がある場合は、公平な立場で辛抱強く仲裁に入ります。想像力に溢れ、楽観的なヴィジョンを持っています。

囚われが強くなると、表面的にだけ周りに合わせ、葛藤を避け、実物よりもいい方に理想化してしまいます。頑固なまでに現状維持、変化へ向けての積極的な行動を起こせないタイプです。怒りや不満を直接表現しないで暗黙の抵抗で示したりします。

不健全な状態では、その場から気持ちが離れ、問題に直面することなく自分自身を麻痺させて空想や嗜癖、ふて寝等に走ります。抑うつ状態や無感覚になってしまいます。



まずは自分の基本タイプを特定してください。そのタイプがあなたが登る心の山なのです。

そして次に、心の高度、つまり心の状態レベルがどの段階にあるのかを?見極めてください。



<ちょっと一休み、コーヒーブレイク>

 

性格タイプの診断には質問や観測による測定が行われます。自分を診断するとは、自分の行動や思考の傾向を9つに分類された統計的な類似パターンに当てはめるということです。これは科学的な意味では根拠の少ないものですが実務レベルでは十分に機能する測定です。

 

(各タイプの簡易的な見分け方)

レンホーナイによると、子供時代の基本的不安を和らげるために本能的な他人への態度として、接近、対抗、逃避の3つの態度が選択されますがこの3つの態度は互いに反発し、葛藤が生じます。この葛藤を解決しようと子供は3つのうちのどれか一つに任せ、残りの2つを抑制する態度をとるようになります。この原理に従ってホーナイは対人態度の3つの型を説明しますが、これがエニアグラムのタイプと同調するのです。

1.自己主張型 (3.7.8)

外の世界への関心が強く、何を求めているかが明確でその欲求にしたがってアグレシブに行動し、欲しいものは自分の手で勝ち取ろうとする。現実的で実際的な面があり、競争社会を生き抜いていくための能力を身につけている。普段自分の内面にはあまり目を向けない。

2.追従型 (1.2.6)

協調性があり、周囲の人との和を大切にする。価値判断の基準を自分の外に求め、親の価値観や世の中の常識、他人の期待、規則やルールに従う。他人の気持やニーズに敏感で、人と人との間で揺れ動き、自分のことよりも相手の方に焦点が合っている事が多い。自分の役割はきちんと果たそうとする。

3.遊離型 (4.5.9)

内向的で、人との間に距離を置き、自分の内面に引きこもる傾向が強い。あまり多くを望まず、競争や成功を避け、孤高をよしとする。他人に邪魔されたくないという気持が強く、他人の指図には従わず、頑固なところがある。

 

またタイプ(8.9.1)を本能型

直観、身体感覚によって物事を判断する傾向があります。頭で考えたり、迷ったりしても、最終的には直感的に決断します。

本能型は基本的に怒りの感情を持ち合わせており、内に向けるのがタイプ1.

外に向けるのがタイプ8

内にも外にも向けるのがタイプ9

 

タイプ(2.3.4)を感情型

感覚的で、意識・無意識を問わず、自分が人からどう見られたいかということがとても重要です。人から関心を得るために、特定の自己イメージを呈示したいという欲求が強くあります。

感情型は恥に関する感情を持ち合わせています。

 

タイプ(5.6.7)を思考型に分類することができます。

思考型は不安の感情に問題を抱えています。これから起こることへの不安に対応しようとして、予測や分析を行い、計画を立てます。物事を解明して、安心し ようとします。何かに対応しようとするときに、思考が先行しがちです。

 

この3×3の型から言えるのは、診断しようとしている人を観察すれば比較的どの型なのかは分かると思います。

グングン前へ出るのか?(自己主張型)

周りに合わせるのか?(追従型)

引きこもるのか?(遊離型)

自己主張型(タイプ3.7.8)の中でも、他人を支配(命令が多い)するための発言が多く、言う事をきかないと怒るようならばタイプ8の可能性が高く、次から次へと新しいことを発言してくるならタイプ7で、同じように提案してくるものの周りの注目を得るための発言ならばタイプ3(受けを狙ったりする)の目星をつけることが出来ると思います。

 

追従型(タイプ1.2.6)ではタイプ6は命令や指令に従っているようで表に見せずに反抗する受動攻撃という反応が見られます。受動攻撃とは「知りませんでした」「聞いてません」という理由で頼まれたことを実行しないなどの行動がよく見られます。これはルールであるボスを常に見張ることで神経をすり減らし、その圧力に耐えられず反発し、確認行動を起こすことで安心を得るという独特の精神構造からきます。

タイプ1は明らかに自分の正義や自己満足的な倫理に従います。タイプ2の場合、相手をコントロールする事が前提での相槌や理解への賛同が感じられるのでタイプ診断のヒントになると思います。

 

遊離型(タイプ4.5.9)では、

タイプ5には研究者気質の方が多くみられます。読書好きで博識です。

タイプ4はちょっと変わったタイプが多いと思います。空想が得意で、様々な状況から自分の頭の中のストーリーを紡ぎ出します。想像が現実を上回ることもあります。

タイプ9はおとなしくておっとりしています。怠惰と思われるくらい、仕事が停滞することがあります。